ミナモ達がシステムを改竄してまで屋上を訪れた現在の時刻は、22時過ぎとなっている。評議会が推奨する消灯時間はまだまだ継続する時間帯だった。 そして空から降り注ぐ流星の数は目に見えて増加していた。雨のように派手に出現する訳ではないが、ひとつ落ちてきたらそれ程の間を置く事無く次を目視する事が可能だった。肉眼でもこう言う状況なのだから、望遠鏡などを使用している人々はもっと凄い物を見ている事になるのだろうかとミナモは思う。 前に視線を戻すと、久島は黙って空を見上げていた。空に跡を残してゆく流星群に視線を注いでいる。その横顔は相変わらずの無表情ではあるが、こうまで注視しているのである。何らかの感情が揺り動かされているのではないか?――ミナモはそう思っていた。 何にせよ、楽しんでくれたらそれでいい。流星ばかりではなく、この空も、月も、風も――。 彼女にとって残念なのは、「久島さん」が大好きであるはずの海を見せられない事なのだが、それはいずれまた別の機会を得る事が出来るかもしれない。 何時までも同じ姿勢で立ち続けていると、人間のミナモでは足を組み替えたりしなければ疲れを感じてしまうものだ。彼女はそうやって身じろぎすると、太腿に硬いものが当たるのを感じた。ポケットに入れられたままになっているペーパーインターフェイスが、持ち主に忘れられてはいないかと自己主張してきている。彼女はその存在を思い出し、ポケットに手を突っ込んだ。 ミナモは制服姿の際には鞄を伴う事が多く、ポケットにそれを入れている事は滅多にない。だからそれを引っ張り出す。電通が入らないかと心配して待ち受け画面のままにしていたが、電通やメールの着信履歴はない。 この病棟のスタッフはともかくとして、ユキノやサヤカ辺りから流星についてのメールなどが来てないものかと思ったものだったが、彼女らは彼女らで何か熱中している事でもあるらしい。もっとも現在の状況は結構な厄介な代物だったので、ミナモとしては現金な事に余計な連絡はされたくはなかった。 彼女はその待ち受け画面を眺めていると、ふと思いついた事があった。画面を切り替え、保存データのフォルダを開いてゆく。彼女は並ぶファイル名を視線で追い、あるひとつを選択した。 不意に、静かだった屋上に、バイオリンの音色が響き始める。背後から鳴り響くその音色に、久島は首を捻って振り返った。 そこにはミナモがピンク色のペーパーインターフェイスを持って微笑んで立っている。そして音色はその端末から発せられていた。 ミナモは義体から注がれている視線に気付く。端末の画面から視線を移し、義体に微笑み掛けた。 「…一之瀬さんの演奏音源です。この前録音してたのをホロンさんに分けて貰ってて」 久島の義体は微笑む少女とその手にある端末とを交互に見た。そして静かに口を開く。 「…知っている。私も全く同じデータを所有しているからな」 その発言にミナモは目をぱちくりとさせた。意外な話だったからだ。しかし、その事件の際の出来事を良く思い出してみると、彼女にも思い当たる節があった。端末を持ったままの手ともう片方の手とを軽く打ち合わせる。 「あ、そうか。あの時波留さんが久島さんに持って行ったんですっけ」 「そう言う事だ」 義体の肯定にミナモは納得し、頷いていた。この一之瀬カズネの音源は最初に彼が行ったものであり、今となっては絶対に演奏出来ない状況となっているものだった。 それを調査のためにホロンが録音し、更に波留がメタルアバターを介してAIの元を訪れ、久島が遺した知識と照らし合わせたのである。それが、あの事件解決の糸口となっていた。ミナモもその場に居合わせたため、それを知っている。 この曲を聴いた事はあるにせよ、ミナモは今のこの夜空にバイオリンの音色は合うような気がした。だからそれを流し続ける。大きな音量ではないため、遠くにいるはずの他者にはこの音自体で彼らの存在に気付かれる事はないだろうと考えた。 久島の義体を使用しているそのAIも、特にミナモの行動を止めようと行動を起こしていない。視線を夜空へと戻し、黙り込んだ。天体観測を再開している。そのBGMにカズネの演奏を流しつつ、ふたりは流星群を見守っていた。 「――…でも、この流星群って、結局何だったっけなあ…――」 暫く空を眺めていたが、ミナモはそう呟いていた。これは流星を久島に見せたいと思った故の行動ではあるが、その下調べは殆どの領域において成されていない。実際に久島が協力してくれなかったらここまで辿り着けていないはずである。 ならば、せめて流星群の事位は調べておけば良かったと後悔していた。サヤカはあの時もっと知っていたのだろうか?そうでなくても、あの後に調べただろうか?ユキノちゃんはどうだろう。マスターはあんな企画物をしてる位だから、きちんと知ってるのかな――親友達に思いを馳せる。 そこに、バイオリンの音色に紛れて、義体の声が響いてきた。 「――…これは、オリオン座流星群。毎年10月中旬頃から観測される流星群で、他の流星群と比較して安定して出現するために、プロではない愛好家であっても観測は容易だ。ピーク期となる10月21日では、夜空を眺めていればほぼ間違いなく流星を目撃する事が出来る」 ミナモの疑問に答えるその台詞に、彼女は大きく頷いた。自らの呟きを捉えてメタルで検索してくれたのかと思ったのだ。感謝の言葉を述べようと、ミナモは義体の方を見た。 しかし、その瞬間、少女の笑顔が固まっていた。 義体も彼女を見ていた。顔を横に向け僅かに視線を上げ、そこに立っている介助担当の中学生を見上げている。それは、彼が先程から良く見せていた態度である。 が、ミナモには、何処か印象が違って感じられたのだ。表情は相変わらず乏しいものの、瞳の奥には何か違う光が宿っているような――。 ミナモの視線を受け止めつつも、義体の説明は続いてゆく。その背後にある空からは、またひとつ流星が落下してきていた。一際大きい光を放つそれは星にも負けない輝きを放って、消失する。 「オリオン座流星群は、5月に出現するみずがめ座シータ流星群と兄弟流星群と呼ばれている。それは流星群が母天体とする彗星が同じものだからだ。流星群とは、彗星の軌道上に残っている塵の帯を地球が通過する事によって発生する現象だからな」 月明かりに照らされ、義体は言葉を発している。淡色のスーツが夜闇に浮き上がり、その闇との境界には光が射していた。褐色の髪が光を弾く。ミナモは彼の瞳に、自らが映っているのを見ていた。しかしその義眼には、やはり何らかの強い意思の力を感じる。 「そして、その母天体とは――」 義体はそこで、言葉を切った。ミナモに顔を向けたまま、ゆっくりと瞼を伏せる。そしてすぐにやんわりとその目を開く。その先に、確信を持った単語が続いた。 「――…ハレーだ」 その言葉を放った瞬間、その義体は確かに口許に微笑みを浮かべていた。ミナモを見つめる目も細めている。 ぎこちないとも表現出来るが確実に柔和ではある表情が、そこにある。波留のように穏やかかつ素直な笑いではないが、少なくとも心から発せられた笑顔ではあるようだった。 そしてミナモは、それをこの義体が浮かべるのを見た事がある。しかしそれは、この依頼を受けてからの事ではない。もっと以前の出来事であり、それは――。 ミナモの中でその結論に至る。どうしてそんな事になったのかは、彼女の知る由ではない。しかし、今彼女の目の前に居るのは、間違いなくその人物だった。彼女は理由もなく、そう直感し、確信した。 震える唇が僅かに開く。しかしすぐに声は出てこない。喉が掠れた心地がする。どうにかして彼女は肺から空気を送り出し、蚊の鳴くような小さな声で、今までこの病棟にて気軽に連呼してきたはずの、その人物の名を呼んだ。 「――…久島…さん…?」 そしてこの屋上に、強い風が吹き抜けた。驚愕し目を見開いているミナモはその風を真っ直ぐに受け止め、しかし彼女はそれを気にする事もなかった。 ミナモと、久島の髪が、風に煽られてたなびいている。 |