AIがどんな対処を行ったにせよ、警備システムに異変が発生しているのは確かな事実であるようだった。ミナモが音を立てないように静かに車椅子を押し、廊下に姿を見せてもそこにあるのは暗闇のみだった。 彼女は制服のスカートのポケットにペーパーインターフェイスを忍ばせていたのだが、一向に電脳での呼び出しなどが発せられない。もし誰かに久島を伴う外出を発見されていたなら速攻で事情を問い質すべく連絡が来るはずである。しかし、それが全くない。そこからも現在の事態が異様であると、彼女も気付かされていた。 しかし、それはミナモがやろうとしていた事に対する助けとなっている。後は最初から病室周辺に寄り付かない事にしていた病棟スタッフ達にさえ勘付かれなければ、どうにかなりそうだった。 それは進路を上手く選択する事で回避する事が可能である。彼らへの対処については、事前にミナモは計画を立てていた。その通りの道順を選び、彼女は車椅子を押して進んでゆく。 照明の類が一切切られているため、廊下は暗闇に包まれている。壁を切り取るように透明の窓が点在していて、そこから月明かりが漏れて廊下の床に傾斜の着いた格子模様を現していた。 ミナモ達はその上を横切ってゆく。自分達以外に物音を発生させる存在は一切感知されないが、それでも一応は警戒していた。辺りを窺いながら恐る恐る進んでゆく様に、ミナモは思わず以前経験した中学校での幽霊騒動を連想してしまっていた。懐かしさと共にその話を目の前の久島に持ちかけたくもなるが、必要以上の物音を立てる事は避けようと思い直す。 エレベーターの前に辿り着くと、回数表示の数値はきちんと表示されていた。電力自体は停止していないために、エレベーターは稼動している様子である。そのエレベーターはこの1階に停止している状態で、ミナモがコンソールを操作するとすぐに扉が開いた。静かに車椅子を押し、乗り込むと扉が閉まる。 エレベーターでは流石に屋上までは直行しない。ミナモは最上階である3階を選択する。今までの話から、スタッフ達は1階以外には立ち入っていないはずだった。だからこの先には現状では誰も居ない事になっているが、それだけに物理的に閉鎖されていてはどうしようかとも思う。 静かに起動してゆくエレベーターの中、ミナモは背後から車椅子に腰掛ける人物を見下ろす。久島は一貫して黙ったままで、瞼も伏せていた。口を真一文字に結び、俯き加減に首を傾けている。 セキュリティの一切を停止させているのだから、病室同様に通常起動しても差し支えはないはずである。しかし彼は普段通りに狸寝入りに至っていた。 ミナモはその首筋に視線を落とした後に、ふと天井を見上げた。エレベーターの天井には半球体の小型装置が備わっている。ミナモは、それが監視カメラではないかと思い、じっと見つめていた。本来ならば、彼女の顔がメディカルセンター本棟に位置する警備室のモニタのひとつに投影されているはずである。しかし、未だに誰からも連絡が来ないと言う事は、やはりセキュリティは誤魔化されているのだろう。 1階から3階への移動では、然程時間を浪費しない。微かな電子音が狭い個室内に響き渡り、ミナモは目的地に導かれた事を知った。静かに目の前の扉が開いてゆく。 彼女はその全てが開き切った時点で車椅子を押し、僅かな段差を踏み越えて未踏の3階へと足を踏み入れた。きょろきょろと辺りを見回すに、様子は1階と大して変わらない。廊下も特に何処かのシャッターが閉じられているとかそう言う事もない。 ミナモはエレベーターの傍にある階段を見やった。それは階下から続いている他に、更に上へと向かっている。階数表示は3階までである以上、その更に上へと通じる階段とはつまり、屋上行きと言う推測をつける事がミナモにも出来ていた。辺りを窺いつつも早足で階段へと向かう。 エレベーターが併設されているためか、流石に屋上へ向かう階段にはスロープは設置されていなかった。車椅子を利用しなければならないような患者が勝手に屋上に向かっては転落の危険性が生じるのが、理由のひとつでもあるだろう。 それでも介助者を伴い、車椅子を背後から押せば何とかなる程度には、階段の段差は低く設計されている。そしてこの車椅子は高機能のものであり、多少の段差に対しては車輪の形状を自然に変化させて衝撃を吸収するようになっていた。 ミナモは慎重に車椅子を押し、確実に上へと導いてゆく。ある程度は車椅子が揺れるのは避けられなく、彼女は持ち手に振動を感じていた。 それ以上に車椅子に座っている久島は揺れを感じているだろうと思い、申し訳なさそうな表情をして覗き込む。しかし彼は相変わらず目を伏せていた。揺れに首を振れさせながらも、黙りこくったままだった。 車椅子自体からの動力の補助は確かにあるが、緩やかな傾斜を手首に振動を伴いつつ成人男性の体重を支えて昇ってゆくのは、女子中学生であるミナモには結構堪えるものだった。その足取りは普段の彼女とは違い、重いものとなっている。それでも彼女は踊り場を経て、着実に歩みを進めていた。 階段の先に扉がある。ミナモは遂にそこに行き着いた。旧式のノブがついたドアであり、彼女は車椅子を身体で押して支えつつ、そのノブに手を掛けた。回そうとする。 しかし、一定までは回るのだが、すぐにかちりと音を立てて停まってしまう。どうやら施錠されているらしかった。 利用される事がない場所のはずなので、そうされていて当然の話ではある。しかしミナモはそれをすっかり失念していた。口の中で声を漏らし、顔を歪めて横に振る。ノブから手を離し、顔を覆った。ここまで来て駄目だったとは、とても空しく悔やみ切れない。 そんな態度を取っているミナモだったが、ふと顔を覆う指の隙間から前の様子が垣間見えた。 車椅子に座ったまま移動させられるがままに沈黙していた久島が、右手を肘掛けから持ち上げていた。探るようにその手が動き、ノブを掴もうとしている。 「――久島さん」 ミナモは背後から彼の名を呼んだ。身体を車椅子の背面に押しつけ、前屈みになる。彷徨う久島の右手を、重ねるように後ろからミナモの右手が捉える。中学生の少女にとって成人男性の手の大きさは余るものの、手首や手の甲の辺りを掴み、ゆっくりと持ち上げてノブへと導いていた。 久島の手がノブに掛かり、その上にミナモの手が重なる。彼はそのままノブを掴み、静止した。目を伏せたまま沈黙する。 やがて硬い音がノブの内部から響いてくる。そして直接ノブを掴んでいる訳ではないミナモの手にも、微かな振動が伝わってきた。 義体はゆっくりと瞼を上げた。その手元を見据える。手首を捻り、静かにノブを回すと、それは最後まで行き渡った。ミナモがノブを回した時以上に回転した事になる。 明らかに施錠が解除された状況であり、ミナモは思わず声を上げていた。纏まらない感情のままに言葉を口にする。 「久島さん、何で」 「コンソールで操作される扉でなくとも、セキュリティシステムを介していればメタル経由で操作が可能だ」 ミナモの言葉が明確な問いを成していなければ、それに答えた久島の言葉も婉曲なものとなっていた。 つまりはこの病棟は隔離病棟であり、侵入者や逆に病棟から脱出しようとする人間に対する監視は常時加えられているはずである。ならば出入り口となり得る場所への監視は絶対に設定されているはずだった。施錠形式が旧式であっても、それがメタルを介するセキュリティシステムに接続されていれば、その鍵の操作もメタルから可能である。この義体はそれを利用して施錠を解除した事になる。 これも一種のシステムクラックであり、先程流し込んだ偽装プログラムを補助として行っている。やはり、先程同様にやってはいけない行為であるようにミナモには思えるのだが、そこは突っ込まない事にした。重ねた手に力を込める。 「――久島さん。開けるよ」 ミナモはそう呼びかけた。義体からの返答はなかったが、彼女はそのまま腕を押し込んだ。ノブが全て回された状態だった扉は、遮るものもなく彼女の力のままに僅かに隙間を作り出す。 その隙間から外気が流れ込んでくるのをミナモは顔に受けていた。外の空気が仄かに漂わせる匂いを鼻腔に感じ取る。しかし久島の義体は無表情のままにそれを正面から受け止めていた。 |