久島の義体はミナモのその発言を訊いた瞬間、目を瞬かせていた。人格プログラムがインストールされておらず感情に乏しいAIとは言え、自らの予想の範疇から著しく逸脱した言動を目の当たりにすると、そんな表情をしてしまうようである。
 彼がそんな顔をしていても、ミナモの作業は確実に遂行されてゆく。ボタンを首元まで止めたシャツを、胸元で引っ張る。皺を伸ばしていた。腕を伸ばしてネクタイを手に取り、襟を摘み上げて首筋に巻きつける。
「――…それで、君は、私を何処に連れて行こうと言うのだ?」
 問いながらも、少女の作業をやり易いように、彼は顎を持ち上げた。喉を若干反らせて首元を露わにする。
 ミナモはその助けを得つつ、掴むネクタイを義体の胸元で揃える。結び目を作りながら、楽しそうに口を開いていた。
「本当だったらきちんとした展望台とかに行きたかったんですけど、流石にそれは無理ですから屋上に行こうかなーって」
「君がこの部屋から私を連れ出したら、監視カメラに映る。すぐには気付かれなくとも、メディカルセンター側から監視されているには違いない。そのうちに警備員が君を誰何しに来るぞ」
 義体は常識的な意見を述べていた。彼は一貫して明確に反対はしていないが、ミナモがやろうとしている事がどれ程困難であるかを表現している。人間の意見に対して直接的な反論は出来ないが、それを諦めさせるだけの情報を開示する。AIとしての筋を通そうとしているかのようだった。
「停電だし、きっと大丈夫ですよ」
「停電だからこそ、メタルや電力に頼らず人間の力で対処しようと考えるのではないのか?」
「皆、きっと他の事で忙しいと思うし」
 少女の言葉に義体は口を開いたが、それ以上の声は発しない。水掛け論が続いているだけであると気付き、ミナモの意見を曲げさせる事を断念するに至った。
 この会話を続けている間にも、ミナモは着実に彼に衣服を着せている。シャツの上からベストを羽織らせ、下半身を覆っていた羽毛布団を更に折り畳んで足元までどけてしまう。肩を押して重心を背中に移動させ、腰を浮かせて病院服を脱がせてそこに靴下とスラックスを穿かせて行った。
 文字通り少女に身を任せている義体だったが、リクライニングしているマットレスに背中を預けてその作業をぼんやりと見ていた。彼は自らの腕は動かそうとは思わず、マットレスに沿って投げ出したままだった。指先がシーツに触れる感触は伝わってきている。
 更にジャケットまで羽織らせ、ミナモはその義体に入院以前の服装をさせていた。厳密には車椅子ではジャケットまで着ていると邪魔になりがちなので、普段はベスト姿だった。しかし今晩の彼女は一式全てを着せている。それは、折角だから――と言う、非常に適当かつ感覚的な対応だった。
 しかし、着替えさせ終わったミナモが一歩引いて久島のその姿を眺めると、リクライニングしたベッドに身を預けている彼が正に「久島」に見えるような気がした。そう思うと、一見して無表情なその顔も、少女の言動の不可解さに戸惑っているようにも見えるのだから、主観とは不思議なものである。
 ともかくミナモは部屋の隅から車椅子を引いてくる。その足元には、クローゼットから揃えた靴も持ってきている。
 介助実習生はそうして車椅子をベッドに横付けし、高さを合わせる。そして義体の腰を抱いてそのまま車椅子の方に引き寄せた。手馴れた様子で彼を車椅子に移動させ、腰を落とさせる。介助者の技量と車椅子の性能に拠り、身体の自由が利かない彼は危なげなく移動を完了させていた。
 そのままミナモは跪き、義体の足首を掴んでいた。ベッドの足元に揃えていた革靴を手に取り、義体に履かせる。義体の感覚は乏しいが靴下越しに少女の手が触れているのを感じていた。
 そもそも脚で歩いていないのだから靴底の汚れも殆どなく、靴を全体的に包み込むように扱ってもミナモの手は汚れる事もなかった。そんな甲斐甲斐しくも見える女子中学生の作業を、介助されている側はじっと見ていた。その間、投げ出されたまま膝の上に落ち着いていた両手を自力で持ち上げて肘掛けに置こうとするが、腕は震えるばかりでなかなか動いてくれない。
 彼は眉根を寄せ、その行動を断念した。軽く持ち上がりかけていた右腕がどさりと膝の上に落ちる。その動きに気付いたように、ミナモは顔を上げた。その先にある義体の顔を見やる。
 その視線を義体は見据える。そして彼女の名を改めて呼んだ。
「――蒼井ミナモ」
「はい」
「これから屋上に向かうのか?」
 義体からの問い掛けに、ミナモは微笑む。年齢相応の笑顔を浮かべ、元気良く頷いていた。
「そのつもりです。――どうしても厭って言うなら、止めますけど」
 その最後には苦笑気味に付け加えられた台詞がある。――それはもう少し早めに言うべきではないだろうかと、それを訊いた義体は思った。
 そうは言われても、着替えさせられ車椅子に移動させられ、ここまで準備を完了されては、たとえ人間同士であっても厭と言い出せるものだろうか。とは言え彼自身はAIであり、人間がやろうとする事には反対出来ないように設定されている。
 ともかく久島はミナモの言葉にゆっくりを瞼を伏せた。俯き加減になり、長い溜息をつく。
 そんな義体の態度に、ミナモは顔を曇らせていた。返答の代わりのようなその態度に、彼女はやはり厭なのだろうかと思ったのだ。
 確かにここまで自分ひとりが突っ走っていた感はある。でも、屋上に行くのだから、もう少しは喜んでくれるのではないのだろうかと期待していた。それがそうでもない様子なので、彼女としては拍子抜けでもあり、また自分が余程身勝手な事をして久島の不興を買っているのだろうかと言う恐れも抱くに至っていた。彼女は何処までもこの義体の事を人間同様に扱っている。
 義体は相変わらず目を伏せているために、少女がどのような顔をしているのかを知らない。その彼が沈黙を破った。
「――蒼井ミナモ。私を連れ出す前に、あの扉の傍にあるコンソールの元へと連れて行け」
 淡々とした言葉がミナモの耳に届く。その指示に、彼女は怪訝そうな表情を浮かべた。義体はゆっくりと瞼を上げ、視線を部屋の向こうに向ける。少女もそれを視線で追い、部屋の入口の扉の傍の壁に配置されている、半球体の透明なコンソールに行き当たった。
 何をしたいのか良く判らないが、とりあえずの指示を出されたのだ。ミナモは首肯し、車椅子の背面に回った。そこから持ち手を引き出し、車輪止めを解除する。
 最初の一歩でミナモは力を込めて車椅子を押し、ゆっくりと車輪が床を捉えて動き始めていた。電脳制御の車椅子であるために、利用者であるこのAI自身が思考によって動作させる事も可能なのだが、入院して以来の彼は一貫して介助者であるミナモにそれを委ねていた。それは自らの存在を第三者のスタッフ達に隠蔽する行為の一環でもあった。
 病室の床は平坦で滑らかである。統括部長の介助用とあって車椅子もかなりランクが高いものを使用しており、またミナモにとっては4月から7月にかけて度々介助を行っていた老人としての波留が使用していたものと同機種である事も助けになっていた。
 それらの要因が相まって、成人男性の体重を保っているその義体を搭載していても、ミナモはその車椅子を押す事にそれ程疲れを感じない。酷く広い部屋でもないために、少女が10歩程度歩みを進めた頃には車椅子を入口の壁際に導いていた。上手く操作して義体がコンソールに真正面から向き合うように、車椅子を位置させる。
 車椅子が止まった時点で、車椅子の義体はゆっくりと右手を上げてゆく。膝の上にあった右腕が震えながらも着実に上がり、そこにあるコンソールの上にかざされた。彼はその手を進め、コンソールにへばりつくように置く。指に力を込め、掴むようにして固定した。
 そのうちに、手を接触させられているコンソールが淡い光を発し始める。ぼんやりとした白色光を義体は顔や胸元に当てつつ、瞼を伏せた。閉ざされた視界の向こうの電脳にて、彼はフォルダを選択し目的のプログラムを起動させる。それを電通を介してコンソールへと流し込んでいった。
 ミナモは背後からその様子を眺めていた。彼女は未電脳化者である。メタルダイバーのバディを務めているとは言え、それはあくまでも形式的かつ精神的なものに過ぎない。電脳を介して波留の活動を補佐したり、そうでなくとも知識の面で助ける事も出来ていなかった。
 だから今の彼女には、この義体が一体何をやっているのか、具体的には皆目見当もつかない。しかし思慮深い彼の事だから、愚かな事はやっている訳もないだろう――少なくとも、軽率な自分よりは。彼女はそんな思いを抱いていた。
 やがて、静謐な室内に、軽い電子音が響き渡った。それに伴いコンソールから光が唐突に掻き消える。突然に灯りを失い、室内は夜闇に包まれた。淡い光に慣れていたミナモは光量の変化に一瞬視力を失う。思わず目を擦っていた。
 その彼女の耳に、衣擦れの音を伴っての鈍く小さな衝撃音が伝わってくる。その音を聴きつけた少女はすぐに眼を開け、前を見据えた。
 義体がコンソールに押し付けていた右手が剥がれ、膝の上に無造作に戻されていた。コンソールに光が戻る事もなく、どうやら彼は用件が終わったのか、その手の位置を維持しようとはしなかったらしい。そうなると重力に従い、無力な腕が落ちたと言う事になる。
 ミナモは車椅子の横に回った。そこに跪き、義体の右手を取った。車椅子の肘掛けに乗せてやる。左腕も同様の措置を取った。そんな彼女に声が届く。
「――蒼井ミナモ。これで君は私を伴ってこの部屋の外に出ても、咎められる事はないだろう」
「…え?」
 ミナモは怪訝そうな声を上げていた。突然何を言い出すのかと思う。
 そんな彼女に対し、義体は顔を向けた。跪いている彼女とは視線の高さがほぼ一致している。至近距離と呼べる位置で顔を突き合わせつつ、彼は淡々と説明を開始した。
「コンソールを介して、警備システムメタルに偽装プログラムを流し込んだ。監視カメラを含むセキュリティシステムのログをループさせる事で、システムは我々の動きを感知出来なくなる。これは一般的な警備システムに対応した広範かつ単純なプログラムなので、その効力は1時間程度に過ぎない。しかしそれだけでも充分だろう」
 義体の長い説明に相槌を打ちつつミナモは聞き入る。それはかなり平易な説明であったために、電脳に疎い彼女であっても感覚的に理解する事が出来ていた。
 しかし、それだけに、事情が飲み込めてきた少女の顔が徐々にぽかんとしてゆく。少女の瞳が丸く見開かれてゆく様子が、目に見えて判るような状況だった。
 早い話が、この義体はプログラムを用いて警備システムをクラックしたのである。その行為自体と、それを補助した偽装プログラムの所持は、果たして違法ではないのだろうか?彼女は電脳に疎いながらもそう思ってしまったのだ。
「…そんなもの、どうしたんですか?」
 困惑気味の少女の問いに、義体は視線を向けた。相変わらずの無表情の中、感動を伴わない視線が彼女に突き刺さる。その態度にミナモは、訊いてはならない事を訊いてしまったのだろうかと、軽く腰が引けた。
 やがて義体は、ついと視線を逸らす。ミナモの顔から顔を背けた。それに伴い、短い答えがもたらされる。
「さあな」
 電脳や義体に疎いミナモであっても、その解答はどう考えても義体らしからぬものであると判った。
 が、だからこそ、これ以上突っ込んで訊いてはならないような心境に襲われていた。彼女の好奇心は相変わらず心の中で湧き上がっているのだが、それ以上に得体の知れない直感がそこにある。それは野生の獣が本能的に自らの身を守ろうとしているかのようなものだった。
 
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