窓からは夕陽の陽光が差し込んできている。外部からは伝わる音もなく、扉の向こうの廊下を歩く人間は未だに居ないようだった。彼らを呼ぶスタッフも居ない。
 もっとも病棟の広さに対して人員数が圧倒的に少ないのである。修理が完了した段階で、ミナモのペーパーインターフェイスに電通と言う形で連絡が来るはずだった。それを受けて彼女が久島を連れて、検査に向かう手筈となっている。
 それも未だに来ていない。あまり帰りが遅くなると兄に心配される羽目になるため、少女としては少し心配になってきていた。
 ともあれ、現在のミナモはリコーダーを手にしている。隣に居る車椅子の人物の方を向き、そのリコーダーを両手で握り締めていた。本体に開けられている穴を指の腹で塞いでみせる。照れたように笑った。
「――私、なかなか上手くならなくって。久島さんに聴かれてたなんて、やっぱり恥ずかしいな」
 目尻を下げて困り笑いを浮かべているミナモを、義体は静かに見やっていた。彼は少女が手にするリコーダーと少女の顔とを交互に見比べる。そして淡々と口を開いた。
「しかし演奏するごとに、運指の動きは僅かながら滑らかになっているようだ。今日始めた曲なのか?」
「はい、今日の音楽の授業で貰った譜面で…。次までには何とか形にしなきゃなあって思って、ここで飽き時間を利用して練習してたんです」
「君なら大丈夫だろう」
 妙に確信めいて聴こえるその台詞に、ミナモはきょとんとした。そこに義体は説明を加える。
「その曲の難易度と、今までその譜面を浚って演奏していた君の上達のペースを考慮するに、それを継続したなら次の授業には充分間に合うはずだ」
 どうやら計算しての台詞だったらしい。それにミナモは苦笑する。しかし理詰めで表現されると、単純に励まされるよりも効果が増しているような気がした。説得された心地にもなる。
 ――おそらく彼は私を励ましているのだろう。
 リコーダーを握り締めながら、ミナモはその思いを強くしていた。それは自分の勘違いかもしれないが、そう考えた方が建設的だと思った。
 そう考えていると、不意に別の情景が彼女の脳裏に浮かぶ。それは別の人物が別の楽器を演奏している光景だった。
 彼女にとっては2週間弱前となる体験であるために、未だに鮮明に思い起こす事が出来た。彼女にとって良い思い出となり得ているものと言う補正も掛かっている。
 それを脳内で再生しつつ、ミナモは口を開いた。若干うっとりとした視線を中空に向けている。
「――この前のアイランドでのホロンさんのバイオリンは、とっても上手だったのになあ…――」
「それは、部長代理付の秘書用アンドロイドの事か?」
「…今の久島さんに言わせると、そうなっちゃうのかな」
 義体の問いに、ミナモは苦笑気味に頷いてみせた。
 ソウタに言わせるとホロンもまた久島が指名していた存在であり、このAIが認識する対象のひとりであるはずだった。しかし、その後の面識自体はそれ程ないとも訊いている。そもそも接点が然程存在しないために、当然と言えばその通りだった。
「彼女はアンドロイドだ。バイオリン演奏のためのプログラムをインストールされたならば、そのプログラムに従い動作が可能だ。努力して1から指を慣らしてゆく君とは違う」
「それは判ってますけど。でもあのホロンさん、とっても綺麗だった」
 冷静な義体の台詞に対し、ミナモは相変わらずうっとりとした口調を続けていた。
 彼女の脳裏に浮かぶホロンの姿は、少女にとって羨望するに相応しいものだった。指の動きは優雅であり、跳ねるようにそれでいて滑らかに弓は動く。立ち姿も真っ直ぐで動揺する事もない。未電脳化者である彼女は脳内に動画としてそれを保存する事は出来ないのだが、それでも鮮明に生脳に記憶していた。
 そんなミナモに、隣から声が届いた。低く淡々とした声であり、冷たいとも言えるものだった。
「しかし逆を言えば、彼女はそれ以上の領域には達する事は出来ない」
「え?」
 逆説的な言葉を投げかけられ、ミナモの想像は立ち止まる。短い声を上げ、少女は義体を見た。
 義体はミナモを一瞥する。そして目を細め、閉じた。静かに語り始める。
「アンドロイドやAIは、インストールされているプログラムに許された行動しか取れない。それが我々の原則だ。最初は上手く行かなくとも、努力でそれをある程度は補う事が出来る人間との根本的な違いがそこにある」
 ミナモはその言葉に返答しなかった。何を言えばいいのか判らなかった。
 彼は一体何を思っているのだろう。何を言いたいのだろう。
 ――自分でもそれが判っていないのだろうか。彼女はそんな事を思う。その気持ちのままに、別の事を問い掛けた。
「――…久島さんは、どうして起きてたんですか?」
 そもそも何故一貫してスリープモードを取らず、病室内では起動しているのか。ミナモには「何故話し掛けるのか」と訊いておいて自分の態度はそれなのだから、その点が少女としても疑問となっている。
 AIとしての自分の存在を隠蔽したいのならば、少しでもその存在を気取られないように行動すべきである。いくら監視カメラが設置されていない場所のみで起動しているとは言え、物事に絶対はない。もしここにミナモ以外のスタッフがやってきたなら、喋っている姿を見られてしまうだろう。会話を交わしていないにせよ、瞳が露わになっているのを目の当たりにされたら、大騒ぎになるだろう。
 ミナモにもその可能性は充分に推測出来ている。この思慮深いAIならば、既に様々な可能性を電脳内で試行済みだろう。
 義体はその問いにはなかなか答えない。沈黙していた。対話型プログラムである以上、明確な答えを見出せない際には思考を続けて答えを導き出すように設定されている。ミナモもそれを感覚的に理解しており、彼の言葉を待った。
 ふと、手持ち無沙汰なミナモは義体の視線を追う。義体は窓の外に視線を注いでいた。
 そこには夕焼けが広がっていた。間も無く太陽は沈もうとしており、天頂部分から既に夜闇が広がり始めていた。鱗雲が太陽の周辺に散らばっており、光を乱反射しているらしく夕陽の赤以外の色合いも生じている。
「私にインストールされている数少ない機能を、出来得る限り活用しておきたいからだ」
「活用?」
 ミナモはその言葉を繰り返した。それを聴覚で感じつつ、久島の義体はそっと視線を落とす。そこには膝掛けに覆われた彼の脚があった。その上に置かれた両手は指が無造作に曲げられた状態で、動こうともしない。
「プログラム上、身体の殆どを動作出来ない私には、そんな行為に意味などある訳がないのにな」
 呟く義体は、夕陽の赤を全身に浴びている。その夕陽を彼は、義眼に瞬きもせずに映し出していた。
 ミナモは、そんな彼を隣で見ていた。彼の横顔を黙って眺めている。
 
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