電理研付属メディカルセンターの敷地内の外れに位置する隔離病棟に存在する病室のひとつは、窓から差し込む夕陽で赤く染まっている。
 この病棟では患者のプライバシーの維持のために、全ての窓の透過設定がメタルを介して可能となっていた。そして現在受け容れている患者は極秘裏の入院となっているため、一元的に全ての窓が外部からは透過されないようになっていた。中からは普通の窓として外の様子が見て取れるのに、外部からはまるでブラインドを下げられているかのような風景にしか見えないのである。
 平日である今日は、蒼井ミナモはきちんと全ての授業を終えてからのアルバイトとなっている。友人達と遊ぶ暇なく学校からメディカルセンターに直行し、病棟に詰めているスタッフに挨拶してから久島の病室を訪れていた。それは依頼を受けてのここ数日の彼女の日常だった。
 しかし、準備万端の夕方だと言うのに、ミナモはこの病室に居残っていた。少女はサイドテーブルの隣に立ち、その手にはリコーダーが握られている。
 それは音楽の授業で使用される楽器であり、テーブルの上には譜面が開かれていて、彼女はそこに視線を落としていた。真剣な顔で譜面上の音符を視線で辿り、指先はリコーダーの穴をそれぞれに塞ぐ。吹き口から息を注ぎ込み、たどたどしい音色を奏でていた。
 彼女の隣には車椅子があり、そこには久島の義体が収まっていた。彼は病院服に身を包み、更に薄手のカーディガンを羽織っていた。膝は膝掛けで覆われており、その上に両手を無造作に重ね合わせていた。顔は傾き、うたた寝をしているように瞼を伏せている。傍でリコーダーの音色が響いているはずだったが、我関せずと言った感で黙り込んでいた。
 久島のぶ代から名代として送り込まれているミナモが同席していなければ、久島への検査や治療行為は一切不可能である。そのために中学生である彼女がこうして病棟に出向いている時間は、医療スタッフ達にとっては非常に貴重なものであるはずだった。
 だと言うのに、間の悪い事に機材にトラブルが発生したのである。結果的に、ミナモは久島と共に病室での待機を余儀無くされていた。
 本来ならば彼女はその修理作業にも同席すべき立場なのかもしれないが、そこまでは契約では考慮されていない。何より彼女の父にして電理研側職員である蒼井衛もその場に居合わせているため、彼を信用する事として彼女は引いていた。修理の邪魔になるのも厭ではあった。
 修理が終了次第、ミナモはすぐに久島を伴って施設に向かう必要がある。しかしそれが何時になるかは、現状では見通しがついていない。もしかしたら彼女の帰宅時間までには間に合わないかもしれない。
 だからミナモは無為に時間を潰す他なかった。何かする事はないかと考えあぐねた結果、今日は音楽の授業を受けていた事を思い出す。通学する際に彼女が持ち歩いている大きなトートバッグをごそごそと漁ると、そこからリコーダーのケースが現れた。それを組み立て、同様に持ち帰っていた譜面を開き、こうして練習していると言う訳である。
 ミナモは指を動かして音色を奏でる。しかし譜面を眺めているとは言え、その流れはたどたどしいものだった。時折リコーダーから口を離し、首を捻って譜面を覗き込んだりもする。ひとつの曲を詰まりながらも何度か繰り返し演奏している訳だが、彼女の指が止まるのは似たような箇所だった。
 今回もまた少女は曲の流れを止め、譜面と顔を突き合わせつつも何事か唸っていた。眉を寄せつつも困ったような顔をしている。譜面はきちんと読めているのに、その通りに指が動いていない様子だった。
 テーブルの上に置かれている譜面には、窓から覗く夕陽が傾いて注がれている。未電脳化者のための紙媒体の譜面がその陽光を弾き、ミナモは目を細めた。思わずその光が射して来る方角を見やる。室内を見渡した。
 そして彼女は、その視線の延長線上に居る車椅子の人物の瞼が開いている事に気付いた。
 介助担当としての少女がベッドから移動させた頃からずっと、意識喪失状態との建前を守っていた彼だったが、何時の間にかに瞼を上げてミナモを見ていたらしい。その表情は相変わらず全く変化させる事もなく、無言で視線を注いでいた。
 車椅子に背を預け、黙り込んだままの久島と、ミナモは視線がかち合うのを感じる。今まで見られていたとは一切思っていなかったために、思わず顔が紅潮して行った。
 病室内は完全防音との触れ込みだったので、このようにリコーダーの練習をしていたのである。しかし肝心の室内で誰かに聴かれるとは、彼女にとっては全くの想定外だった。
「――…あの…久島さん…」
 ミナモは曖昧な笑みを浮かべた。普段の彼女からは珍しいその表情を顔に張り付かせたまま、車椅子の方を向いて呼び掛ける。
「どうした、蒼井ミナモ。その演奏を継続するに当たり、何か問題でも生じたのか?」
 そんな彼女に対し、義体は静かにそう持ち掛けていた。淡々とした口調で少女に話し掛ける。
 それにはミナモも口篭ってしまう。どうやらこの義体には、自分が目覚めていると振る舞う事で何が引き起こされるのか、その自覚がまるでないらしい。かと言って彼女は、ストレートに「問題があるならば、それはあなたのせいです」と言い募る気分にもなれなかった。
「いや、その…――もしかして、うるさかったですか?」
 結果的にミナモは、暗に自分の演奏のせいで目覚めたのではないかと台詞に含めていた。多少気を遣った風に言葉を選んでいる。
「そう言う訳ではない。聴覚からの入力が続くので、視覚の確保も行おうと思っただけだ。この病室内であれば、私は通常起動しても構わないからな」
 問われた義体は少女を見据え、そう答えていた。そして軽く目を伏せる。
「もし私の存在によって君の演奏に不都合が生じるのならば、私はスリープモードに移行するが?」
 義体が発したその台詞は、結局の所ミナモを気遣うものだった。意識を始めとした能動的な機能を停止させ最低限の機能のみで起動する状態に入れば、まるで眠っているような状況に見える。
 検査などで人前に姿を見せる際の彼は、いつもそのモードに移行していた。AIの存在を隠蔽する必要がある以上、意識喪失状態を偽っておかなければならないからである。
 今回は監視カメラなどがない病室内で待機しているために、感覚を生かしていた。しかしミナモが望むなら、やはりモードの変更を厭わないと表明した事になる。
 そう言った話を持ちかけられたミナモは、視線を上に向けた。白い天井もまた差し込む夕陽の影響を受けて、僅かに赤く照らされている。
 彼女はリコーダーを持ち上げて口許に当てた。吹くまでもなく、少し考え込んでみせた。そして導き出した答えを、ぼんやりとした口調で声にしていた。
「――…それはつまらないかも」
「…何だそれは」
 述懐するミナモに対して、義体は少しの間の後に声を漏らしていた。
 その義体の声は、ミナモには若干の呆れを感じさせるものだった。しかしそれは自らの気のせいなのかどうなのか、彼女には判別がつかなかった。
 
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