ソウタは着実に報告書に目を通している。波留に提出されたそれは、何も今ここで全てをチェックする必要は、実の所ない。波留が立ち去った後に秘書のホロンと共に精査を加え、その結果疑問点などが出てくれば後々波留にメールを送付すればいい話だった。
 無論、ソウタもそうするつもりだった。しかし折角波留がメールで報告書を提出せず、またホロンに手渡したまま帰る事もせずに目の前に立っている。ならば、今ざっと目を通して質問したい事は今のうちにしておきたかった。
 そんな心境で報告書を読んでいる統括部長代理の真剣な面持ちを、波留は上から眺めている。彼は背筋を伸ばして姿勢良く立っているが、それは片肘張った印象ではなかった。微笑を浮かべる姿は自然体である。
「――ソウタ君。この場を借りて、ひとつお願いしたい事があるのですが」
 波留はあくまでも柔和な態度を保ったまま、ソウタにそう話し掛けていた。
 その声にソウタは顔を上げた。報告書をデスクの上に下ろす。ひとまずそれは置いておき、波留との会話に意識を向ける事にした。
「俺に出来る事でしたら。他でもない波留さんからの頼みです。善処しましょう」
 報告書に目を通していた時には真面目腐った顔をしていたソウタだったが、話題が変わった事で口許に笑みを浮かべていた。彼が信頼する年長者を見上げる。声の調子は僅かに明るく弾むものとなっていた。その辺りからも彼の波留に対する心情が窺い知る事が出来る。
 信頼感を真っ直ぐに表現された波留はにこやかに笑っていた。大きく頷く。そして単刀直入に要求を告げた。
「僕は、人工島周辺海域に存在する、ある特定ポイントの潜水調査を行いたいのです。ですから電理研にその許可を頂きたいと思います」
 波留の言葉に、ソウタは面喰らったような表情をした。報告書を横に置き、両手をデスクの上で組む。訝しげな声を上げた。
「潜水調査…ですか?――人工島周辺海域でしたら、電理研がその殆どを無人ビーコンを使ってカバーしているはずです。人的観測データも数ヶ月おきに更新されていると思いますが…」
 部長代理は考えを纏めるように言葉を続けていた。実際に、そう言いつつ電脳内では自らの権限で電理研内の海洋観測データ用のサーバに辿り着く。詳細検索を掛けるまでもなく攫ってみると、膨大なデータが彼の前に現れていた。その各々のデータが含む座標や日時のフラグを参照するに、彼の推測の正しさが証明されている。
 彼は元々は統括部長付秘書と言う珍妙な肩書きの持ち主であり、電理研の調査員でもあった。その調査範囲は主にリアルの人工島ではあるのだが、その大半を成すのはハナマチを中心とした荒事を含む人間関係だった。海を始めとするアウトドアの調査は彼にとっては専門外である。むしろオーストラリア内陸部にて15年間の殆どを過ごしていた妹の方が、その心得を持ち合わせているだろう。
 それでも、電理研の重要業務である人工島運営のサポートの観点から、周辺海域の調査は有人無人を問わずに定期的に行われている事は知っている。それは電理研職員としての常識であり、「楽園」とは言え南海の孤島の住民である人工島島民としても常識だった。
 ――見るからに、電理研にデータは揃っているはずなのに、わざわざ別件で取得する必要があるのだろうか?彼は自らの常識と照らし合わせて、ついついそう思ってしまう。
「それらのデータは既に閲覧済みです。しかし、僕が希望する地点をカバーしているものが存在しないのです。ですから僕が独自に潜って調査したいのですよ」
 疑問を抱いているソウタに、波留は微笑んで説明を加えていた。部長代理が持つ疑問点については、既に通過済みであると表明する。
「そうですか…」
 説明を受けたソウタは頷いていた。納得する。
 良く考えてみれば波留にはその手のデータを自在に閲覧出来る権限までは与えていないはずなのだが、独自に該当部署に閲覧申請を行っていたのだろうと解釈していた。電理研は様々な機密データを保持しているが、それを閲覧するに値する人物が規定の手順を踏めば許可されるはずなのだから。それでも欲しいデータがないのだから、自分の手で獲得しようとしているのだろうと考える。
「つきましては潜水調査の許可と、可能ならば小型のもので構いませんので調査船をお貸し頂ければと」
 波留は再度要求を申し入れて来る。そして今回は、そこに更なる詳細を加えた。
 ソウタは波留の言葉を訊きながら頷く。具体的に提示されたその要求を考慮しつつ、新たに湧き上がった疑問点を口にした。
「その観測への参加メンバーはお決まりですか?」
「僕独りの予定です」
 規定事項のような顔をして波留は穏やかに答える。それにソウタは軽く瞬いた。またしても意外そうな顔をする。
「調査船を独りで操船して、調査潜水まで行うのですか?」
 ソウタは訝しげな声と表情で、その問いを投げ掛けていた。やはり彼にとっては海洋調査は門外漢なのだが、単純に考えて操船する人間と潜水調査する人間は別に考えるべきなのではないだろうかと思ってしまうのだ。
 対する波留は、相変わらず穏やかに微笑んでいた。彼は自らの答えに対して、門外漢代表のソウタが一体どのような疑問を持ち得るのか、その辺りを良く判っているようだった。それは長年の潜水調査員としての慣れもあるのだろう。
「そのポイントまで辿り着けたら後は潜るだけです。ダイブログはメタル領域に流し込んで、後で精査すればいいだけですし。50年前とは違います」
 台詞の最後の方では波留は悪戯っぽく微笑んでみせていた。50年前のスタイルを知るダイバーなど、2061年現在の今となっては彼位しか居ないだろうからではある。
 彼が口にした冗談とおぼしき台詞にソウタも感化され、釣られて笑う。しかし笑いつつも彼は着実に疑問点を積み重ねて行っていた。
「その手法ですと…波留さんでしたら、わざわざ電理研を通さずに独自に調査する事も可能でしょうに」
 50年前時点の調査潜水でも彼は既に原初のメタルとナノマシンを利用していたとは言え、ベースとなる調査船内には観測データ受信用の端末を必要とした。その端末はマイクロフレームに匹敵する巨大なコンピュータであり、狭い観測船の一角を占領する羽目になっている。そして観測中には人員を配置し、随時ダイブログの監視を行わなければならなかった。
 それに対して2061年の人工島では、電脳化している人間ならば随時普遍的にメタルに接続出来る。そのメタルのサーバスペースは、個人に割り当てられている容量だけでも充分に広大だった。そのために、観測を行いながらもログはその個人所有のスペースに送信し保存しておく事を可能とした。そしてそのログは後日改めての閲覧も可能であり、そこで精査を加えるものだった。
 以上の変遷から判るように、現在のメタルは大掛かりな機材をも代用出来る。それがメタルを普遍的に利用出来る人工島の常識だった。
 無論、研究に使用されるような精密なログにするためには、精神的にも肉体的にも安定したダイブを必要とする事になる。それは今も昔も変わらない。そして送信されたログをチェックし、指示を送る人間も、船上に居るに越した事はない。ダイブ上のその他のサポートも可能となるからだ。
 しかし、波留はリアルとメタル双方において一流のダイバーである。全てを独りで行う事も充分に可能ではないだろうか。ソウタにはそう思えてならなかった。
 そもそも観測許可を取りたいだけならば、それこそ該当部署に申請すればいいのである。何故統括部長代理の自分に言い出すのか。
 調査船を借りたいからだろうか?しかし人員1名の単独調査で、只ポイントに出向くだけならば、あのダイビングショップから小型船を借りれば面倒もないだろうに――そんな風にソウタが思っていた時の事だった。
「――確かに調査自体は個人的にも可能でしょう。しかし、僕は、やるからには確実に行いたいのですよ」
 相変わらず微笑んだまま、波留はそう言い出していた。それにソウタは、やはり怪訝そうな表情になる。
「…と、仰いますと?」
 話の流れが掴めないと言いたげな表情を浮かべたまま先を促すソウタに対し、波留は少し困ったように笑ってみせた。その表情を見たソウタは、まるでそれが照れ笑いのように思えた。
 そして波留は口を開いた。それ自体はとても自然な態度であり、静かな口調だった。
「僕が調査を行う時間帯に、周辺海域への船舶の往来を制限する通知を、電理研の名で出して頂きたいのです」
 
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