波留真理が事実上の電理研委託メタルダイバーの統括者となっている現状において、彼が統括部長オフィスを訪問するのは珍しい事態ではない。
 彼は現在の部長代理である蒼井ソウタ同様に久島部長の盟友であり、久島が引退状態にある今はソウタに重用されていた。彼は久島部長の元で働いていた時と同様に腕の良いメタルダイバーとして重要な案件を処理し続け、実績と名声とを電理研内外に確立しつつある。明確な肩書きはなくともその評価が彼を統括者として後押しし、結局彼もそれを受け容れつつあった。
 メタル経由で提出すればいい報告書もあるし、ちょっとした会合ならばアバターを用いても可能である。しかし波留は可能な限り若き統括部長代理の元を訪れるようにしていたし、彼の訪問を受け容れる側も予定が許す限りそれを許していた。
 ふたりの実年齢は天地の開きもあり、精神年齢兼現在の肉体年齢も10歳程度の差がある。それでも彼らは徐々に気の置けない関係を築きつつあった。無論、彼らは友人ではあるかもしれないが、親友とも言い切れるような関係ではない。それはごく単純に「仲間」と表現するのが一番的確であるように、互いに思えた。
 休み明けの今日、波留は朝からメタルダイブの仕事をこなしていた。ダイブルームを訪れてダイブを行い、リアルに帰還したその後にはオペレーターを補佐として事後処理にも携わる。自らの他にも他者のダイブログを参照しつつ今回のダイブの結論と今後の処置の提言を、報告書として纏めていた。
 詳細なレポートを書き綴る波留に、電理研は特にオフィスを用意してはいない。しかしメタルを基幹システムとする人工島とは便利なもので、ダイブルームの片隅で楽にしてソファーに腰掛け、そこからメタルに接続してアバターとしてのデスクに着いて作業を行う事が可能だった。
 そもそもそれすら必要とせず、只、自らの電脳内でレポートを筆記しても良い。しかしダイブログを始めとした様々な資料を交えて論旨を纏めるとなると、それらを視認出来るデータとして擬似的に扱う方が波留にはやり易かった。
 彼がそうやってレポートを纏めている間にも、ダイブルームでは他のダイバー達が彼らの仕事を行っている。そして波留もアバターでの事務作業とは言え長時間連続のメタルへの接続は避け、数時間おきにリアルに帰還してその都度リラクゼーションルームなどで息抜きしていた。
 そんな状況だったので、ダイブ自体は簡単なものだったが、彼が今回のレポートを完成させた頃には夕方になっていた。それから彼は統括部長代理付の秘書アンドロイドであるホロンに電通し、今からオフィスに報告書を届けに行く旨を伝える。するとソウタも在室との事だった。
 報告書データを移行させたペーパー型モニタを小脇に挟み、波留は電理研内の通路を歩いてゆく。電理研職員としての制服どころか白衣すらも纏っていない彼は、その長い黒髪からしてこの企業に勤める人々の間からは目立っている。しかし大企業で在るが故に「他の部署にはこう言う人間も居るのだろう」と言う合意が通路上に出来上がっており、彼を見咎める者は存在しない。
 実際に、通路の各所に備え付けのコンソールでの身分チェックにも彼は阻まれる事はないため、人間達もその結果に追随している。そんな風に彼が確実に歩みを進めてゆくうちに、通路を歩く人間の職員の姿は徐々に減って行っていた。人口密度は減少し、時折行き交う存在も各種制服を纏った公的アンドロイド達となってゆく。その風景は彼が電理研の中枢へと向かっている事を表していた。
 電理研海底区画でも最深部に近い位置に、部長オフィスは存在する。波留はその前に立ち、コンソールに手をかざした。何度目かも判らない身分チェックを経て、その扉は開く。通過許可が出ているのはごく少数であるこの部屋に、彼はすんなりと足を踏み入れた。
「――ソウタ君、失礼します」
 入口付近に立てられている衝立を回り込みながら、波留は室内に向かって声を掛ける。そのまま中を伺っていた。
 広いオフィスの向こうには黒いモノリス状のデスクがあり、そこには青年が腰掛けている。彼は座った状態のままで、波留が入ってきた入口の方に身体ごと向け、視線を送り、目礼していた。
 そして波留の前には電理研の秘書用アンドロイドとしての制服を着ている公的アンドロイドが立っている。彼女は波留に対し、深々と頭を下げた。
「――マスター。お待ちしておりました」
 波留は、自らを未だにマスターと呼ぶ女性型アンドロイドに視線を落とした。人工頭髪である美しい黒髪をアップにしている彼女の後頭部が視界に入る。
「ああ、ホロン。部長代理に今朝の報告書をお持ちしたよ」
「存じております。――どうぞ」
 波留が微笑んでアンドロイドにそう呼びかけると、彼女はゆっくりと頭を上げた。秘書として設定された柔和な表情をその顔に浮かべ、ゆっくりと右手を波留へと差し出す。
 その態度に、波留は小脇に挟んでいたペーパー型モニタを持ち、アンドロイドの手に委ねた。ホロンはそれを受け取り、また一礼する。
「ありがとうございます。お茶をお淹れしますので、ソファーに掛けてお待ち下さい」
 ホロンは胸にモニタを抱え込み、左手でオフィスの奥にある応接セットを示した。プログラムやマニュアルに従っている接客を受けつつ、波留は苦笑した。胸の前で右手を横に数度振る。
「いや、今日はそれ程長居をするつもりはないんだ。お茶はいいよ。ありがとう」
「そうですか…」
 波留の申し出にホロンは会釈した。そこに波留は続ける。
「でも、ソウタ君と少し話したいから、中に入ってもいいかな?」
「了解しました。どうぞ、マスター」
 そしてホロンは一歩引く。波留の歩く進路から身体をずらし、頭を下げた。それから彼女は室内へと足を踏み出す。波留もそれに従い、デスクへと近付いて行った。
 黒色のモノリスであるデスクに着いているソウタは、電理研制服の上に白衣を纏っていた。背後の壁には白い杖が立てかけられている。
 モノリスとはメタルへの接続端子であり、保存媒体でもある。その処理機能は昨今のコンピュータ同様にある程度は大きさに比例するものであり、これだけの大きさのモノリスを使用しているのは部長オフィスのみだった。このデスクそのものが統括部長と言う職務の強大さを象徴している。
「――座ったままで失礼します。波留さん」
「ええ、構いませんよ」
 ソウタは席に着いたまま表情を緩めて波留にそう呼びかけ、デスクの前に立つ波留もまた笑顔で対応していた。
 彼らが穏やかに会話を交わす中、秘書のホロンがソウタに報告書を保存したモニタをソウタに手渡す。ソウタはそれを受け取り、ホロンに自分の仕事に戻るように指示を出した。アンドロイドは了承し、人間ふたりに対して一礼をする。そして踵を返し、デスクの前から立ち去って行った。
 ソウタはホロンの背中をしばし視線で追っていたが、そのうちにそれを外す。手の中にあるモニタを起動し、報告書をチェックし始めた。
「波留さんには、本当に御苦労をお掛けしていますね」
「いえ…最近のメタルは落ち着いて来ていまして、然程苦労はしていません」
 報告書にざっと目を通しつつソウタはそんな事を言い、波留もそれに返す。ソウタの言葉は半ば社交辞令であったが、その半分は心から波留を気遣っていた。
 波留には9月の復帰以来かなりの量の仕事を委託して貰っている上に、それがどんどん面倒なものとなって来ている。仕事そのものの難易度は高くなくとも、メタルダイバー数名とチームを組んでダイブする事が多くなったのだ。その場合、確実に波留がリーダーとなる。
 その実績を積み重ねてゆくうちに、自分がダイブしていない仕事に関してもログに目を通してその補足を行う事も増えてきた。立場上は単なる委託ダイバーに過ぎないのに、管理職めいた仕事までするようになっているのだ。
 卑近的に言うならば、契約金以上の仕事をして貰っている事になる。自発的に波留が動いているとは言え、それに甘え過ぎている面があるのではないかとソウタは思っていた。
 一方の波留の言葉だが、これもまたソウタと同様である。半分は社交辞令であり、もう半分は本音だった。彼にとって今のメタルは本当に大した状況ではなく、だから心配されるような事はないと気遣いを見せていた。
 久島が倒れて以降の新しい電理研を担っている彼らは、そう言う関係を築いていた。
 
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