それなりに広い隔離病棟に、現在は5名しか滞在していない。そのうちのふたりがこの病室に居るが、近辺に人の気配が一切ないために室内には静謐な空気が流れていた。
 普段ならば耳に届かないような生活音も聴こえてくる。ベッドに両手を着いているミナモは、そのマットレスが内部に保持しているスプリングの音がやけに鮮明に聴いていた。
 その視界の下に横たわっている義体の顔を彼女は見ていた。4月以降から見慣れた顔だったが、今はその頃とは何処となく違う印象がそこにある。使用義体は同じだと言うのに――しかしそれは、彼女が知る「ホロン」とその他の公的アンドロイドとの区別と似たようなものかとも、悟っていた。
 ――だとすれば、やはりこのひとは「久島さん」ではないのだろうか?私はそうは思っていないのだろうか?――ミナモの心中ではそんな想いがぐるぐると回っている。先程の発言は、考えを纏めないままのものだったらしいと我ながら痛感する。
 ミナモが上体を押し下げると、首筋を伝って分かれていた髪が胸の方へと垂れてきた。その下方に久島の顔があるが、髪の長さ自体も彼女の上体の傾きも、その二房の髪が彼の元に届く程ではない。
 それでも自分の方に向かう髪の先端を、義体は瞳に映している。衣擦れの音を聴覚として捉えつつ、彼は口を開いた。
「――君に求められようにも、私には起動時点で名前が設定されていなかった。設定が空白のままで放置された以上、私に固有名称が与えられる事は全く想定されていない」
 アンドロイドや搭載AIの設定を行う事が出来るのは、マスターとシステム管理者の権限を与えられた者達である。その両者の立場はひとりが兼任しても良いし、ふたりで分担しても良い事になっている。前者は設定変更がひとりの手でのみ行う事になるためにセキュリティが強固となるが、そのたったひとりが不慮の事態に見舞われてしまえば、設定変更はメーカーや専門技師を通す他なくなる。後者は逆の話となり、どちらにせよ一長一短だった。
 今ミナモの前に存在するAIの設定は、前者だった。そしてその人物は、AIの構築者すらも兼任している。「彼」にとって、自らの全ての創造主は久島永一朗そのひとだった。全ての権限を久島が所有している以上、その設定を変更出来るのも彼のみだった。そして今、久島はリアルには存在しない。最早変更のしようがない事になる。
 個人所有のアンドロイド達には、人間のように名前がつけられる事も珍しい話ではない。彼らの設定担当者がそのAIに固有名称を設定する事で、彼ら自身が自らの名を認識するのである。逆説的に、その手法を取らなければ彼らは名前を名乗る事は出来ない。第三者に名を与えられても、AIにそれを設定しなければ彼らには定着しないのである。
「じゃあ、やっぱり久島さんでいいんじゃないかなあ…」
 義体の弁を何処まで判っているのかは謎だが、ミナモはぼやくようにそう言っていた。とは言え、やはり彼女にはその確証が持てない。直感が揺らいでいる。
「設定上の私からすれば、それはマスターでありシステム管理者であり、この義体の動産所有者としての名義だ。私の意識を指してはいない。少なくとも私のAIには設定されていない」
 淡々とした義体の言葉に、ミナモは両手をベッドからそっと上げた。口の中で小さな声を用いて何やら不明瞭な言葉を発しつつ、顔を歪める。両手の指を頭に立て、結び目とリボンも気にせずぐちゃぐちゃと掻き回した。
 どうも説明を受ける度に、彼女としては煙に巻かれている気分に陥ってしまう。――そうやって小難しい事ばっかり言うのは、正に久島さんそのものだよ――そんな思いにも至る。
 自らの手で髪を乱した少女の姿を、義体は表情を浮かべないまま見ていた。彼女の両手がベッドから離れた事でマットレスの軋みも納まったが、彼の顔は傾いたままだった。重力に引かれて垂れた前髪が睫毛に掛かったとしても、彼には特に気を留めた様子もない。
 そのままの姿勢で彼は視線を巡らせる。目の前の少女の顔から走査して行き、ベッドサイドテーブルに置かれた鞄に行き当たった。まだ真新しいベージュの膨らんだ鞄に視線を固定しつつ、彼は口を開く。
「――蒼井ミナモ。君は未電脳化者だったな。久島永一朗の記憶に該当のものが遺されている」
 それはミナモにとっても話の流れにしてみても、唐突な問い掛けだった。少女は髪を掻き回す手を止め、きょとんとする。我に帰った彼女はとりあえずその問いに首肯しつつ、手櫛で再び髪を整え始めた。首筋から髪の先端に向けて梳き、次いで耳元に掛かる髪をいじる。
 後頭部に手を伸ばすと、そこにあるリボンがどうにも傾いているような気がしてならなかった。勢いに任せて自分でやった事とは言え、彼女はそれに後悔してしまう。
 そこに、義体からの言葉が投げ掛けられて来た。
「君は、自らが所有しているペーパーインターフェイスに、名前を付けるのか?」
「…え?」
 ミナモにはその問いの意味が判らなかった。純粋な問い掛けなのか或いは反語表現なのか、それも理解出来ていない。発言者を伺おうにも、その義体は相も変わらず表情と言うものを一切浮かべていない。
 ともかく彼女にはそんな趣味はない事は確かだった。電化製品に名前を付けるような人種は一定数存在はするが、彼女はそのカテゴリにはその身を置いていない。
 ミナモは髪をいじる手を止めた。義体を見ると、彼の視線は自分に向いていない事に気付く。彼女がその視線を追うと、自身の鞄に行き当たった。そこにはペーパーインターフェイスが収まっている。
 それを取り出した方がいいのだろうか。彼女はそう思い、一歩を踏み出しサイドテーブルに手を伸ばした。テーブル上に鞄を置いたまま、その上面のチャックを音を立ててゆっくりと引いてゆく。半ばまで開いた段階で露わになった隙間に右手を突っ込み、中を漁ってゆく。
「――それと同じ事だ」
 義体の言葉にミナモはその手を止めた。右手は厚みが薄い長方形サイズの携帯端末を掴んでいたのだが、引き抜かずに声のする方を振り向いていた。
「私はAIであり、その我々は人間に奉仕する道具に過ぎないのだ。少なくとも私の全てを構築した久島永一朗は、そう判断していると思われる」
 そんな台詞を述べる義体の瞳には一切の感情めいたものは浮かんでいなかった。顔を傾け前髪が目許に入る位置に来ていても、瞬きもしていない。
 壮年の男の無表情な顔を見やり、ミナモはゆっくりと鞄から右手を抜いた。その手元に視線を落とす。
 そこにはピンク色の携帯端末が握られている。彼女は眉根を寄せそれを見て、そして視線を外した。正面に向け、下に落として、義体の顔に行き当たる。近くにある携帯端末と遠くの義体の顔とを見比べた。
 ――この端末と、彼が、同じ存在?
 概念的にはそうだと言ってしまうのか?
 義体の言い分は、ミナモにしてみたらとても衝撃的だった。彼女にとって、認め難い事だった。彼女は周辺に居るアンドロイドにも人格を認めるような態度を取っている。それは特にホロンと呼称される女性型公的アンドロイドに留まらない。電理研に多数所属する公的アンドロイドすら彼女にとっては「お姉さん」だった。
 しかし、今ミナモの前に居る義体は、全てのAIは道具に過ぎないと言ってしまった。ホロンもお姉さん達も、そうなのだと。
 自分達の事なのに、どうしてそんな風に言ってしまえるのだろう。
 設定って――人格プログラムって、一体何だろう。
 彼女は端末を握る手に、ゆっくりと力を込める。待機状態にある端末は握られても全く反応を見せない。
「久島さんは、そんな…――酷い人じゃないと思います」
 ミナモは静かにそう反駁していた。しかしそれは強い言葉ではない。躊躇いがちに言葉を選択し、最後の方は消え入りそうな声となっていた。それに伴い、顔の前に持ってきていた携帯端末を握る手が、ゆっくりと滑り降りる。身体の脇に腕が戻り、反動で大きく揺れた。
「しかし実際に私は名をつけられてはいないし、人格も付与されていない。ならば、私は人格プログラムをインストールされているアンドロイド以前の、単なる機械体と言えよう」
 義体の論拠はそこに戻ってしまう。ミナモは俯いていた。判らず屋とでも言い放ちたい心境ではあるが、おそらくはこの「久島さん」も自分の事が良く判っていないのだろう。だから私なんかにこんな風に訊いて来るのだろう――ぼんやりとした思考ながらも彼女はそんな事を考えている。
「おそらくは波留真理も、同様だ」
「――波留さんは違います!」
 義体が淡々と続けると、突然、強い声が飛び込んできた。
 ミナモが一歩を踏み出し、ベッドに身を乗り出していた。両手を強く握り締め、その右手の携帯端末を胸に引き寄せる。傾いている義体の顔を覗き込むようにして、視線を合わせていた。
「波留さんは絶対に違います。だってあんなに優しいひとだもの!」
 勢いのあるミナモに、義体は何も答えない。ミナモはその顔を覗き込んでいて、ふとその瞳に映し出されているのが自分自身である事に気が付いた。義眼特有の落ち着いた色合いに霞むように映る自分の顔は、一体何をそんなに焦っているのかと問い質したくなるような代物だった。
 自らを映す鏡のような瞳を目の当たりにしていると、ミナモは我に帰る。頬が赤くなるのを感じていた。私は一体どうしてしまったのだろうと思ってしまう。
 少女はそのまま両手を膝に重ね、勢い良く頭を下げる。謝罪の言葉を発していた。
「――…ごめんなさい」
「何故君に謝る必要がある。私は所詮AIに過ぎない」
「それでも、です」
 怪訝そうにも聴こえる久島を模した声にもミナモは顔を上げない。頭を下げたままだった。
「…やはり兄と同様の言動を取る。――その記憶を所有したとしても、人間とは本当に理解し難い」
 久島の容貌を持つその義体は、その感想めいた言葉を漏らし、視線を天井へと向けた。そしてそれ以降、少なくともミナモが病室から出て行くまで一切の声と言うものを発しなかった。
 
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