電理研統括部長久島永一朗は、先のテロによりブレインダウン症例に陥っている。それが世界の建前だった。 しかし彼程の最重要人物ともなると、その報道は虚飾に満ちたものとなり得る。当人が最早リアルに居ない状況では、彼を取り巻く善意の第三者達が様々な事情を振りかざして脚色を加えるものだった。 彼はブレインダウン症例に陥った所までは、紛れもない事実である。しかしその先にある事実こそは、殆どの人々の前に公表されていない。 久島は自らの不予の事態に備え、自らの記憶と知識を保存していた。そしてそれを伝える役目を担う存在として、自らの脳核にAIとしての機構を備えさせていたのである。 そのAIの起動条件は、生脳からの意識の喪失だった。かくして彼がブレインダウン症例に陥った時点で、AIは起動条件の第一段階をクリアする。その後は遺された人々の機転により、その条件は完全に満たされた。喪われたはずの久島の膨大な知識はAIを介してリアルに回帰し、迫り来る地球の危機の回避のために用いられる事となる。 それからはメタルの停止と再起動と言うまた別の大事件に見舞われるのだが、そのAIは今尚久島の義体を用いて脳核を抱え込んだまま起動を続けている。 その件に関しては、真実を知る者は希少である。例えばこの病棟に関わるスタッフの中でそれを知るのは、AI当人を除くならば蒼井ミナモのみであった。彼女の父は久島部長に「同類」として認められた人物だったが、この一件については当時も今も一切伝えられていない。結果的に少女は、家族にも話せないような、自分以外の様々な秘密を抱えてしまっている事になる。 AI当人も自らの立場を弁えていて、人前での起動を行おうとはしなかった。この入院措置を伝えられた時点で彼は沈黙している。 元々が久島の手によって存在を隠蔽されていたAIである。今回の検査によっても、現状において脳核に付随している「彼」の存在は発覚していなかった。久島部長の治療に当たるような医師や義体技師達なのだから、人工島ではかなりの腕前の持ち主であるに違いない。その彼らにも発見出来ていない。 ――とりあえずは、今の所は。 ミナモはそう付け加えなければならないような気がしていた。今回のAIのメタルを介しての探査は、いくら何でも自らの検査中には行っていないだろう。ならば彼が言うように、足が着く事はないはずだった。 …にしては「おそらく」との含みを残した表現なのが少女の気に掛かるのだが、可能性をゼロに出来ない以上は断言出来ないのだろうと思い直していた。彼は人間ではなくAIなのだから、曖昧な箇所についてはそのままに人間に伝えるはずだった。 「――久島さんがそう言うなら、きっと大丈夫なんでしょうね」 ミナモは苦笑気味にそう言った。一時の衝撃から抜けた少女は気を取り直し、車椅子の元へと再び向かう。それを部屋の隅に収める行動を再度試みていた。 義体は彼女の動作を視線で追っている。それ以上の動きは見せない。ベッドに横たわるのみだった。彼は元々身体の殆どを稼動出来ない状況ではあるが、唯一自由に出来る顔すらも向けない。視界で捉え切れない動作は僅かに伝わる音を聴覚で感じ取る。 そうして彼は再び近付いて来るスニーカーの足音を聴いた。少女はベッドサイドに置かれたままの鞄に手を伸ばしつつ、義体の顔を覗き込んだ。 義体の視線が彼女の顔に注がれる。明らかになっている瞳には感情は一切浮かんでおらず、その無表情のままに彼は口を開いた。 「蒼井ミナモ。私から君にひとつ尋ねたい事がある」 「え?」 ミナモはきょとんとした。鞄の紐から手を離し、義体に向き直る。――何でも知ってそうなこの人が、私に訊きたい事などがあるのだろうか?そんな疑問が彼女の脳裏に渦巻いた。 不思議そうな表情をしている少女を、やはり義体は無表情を保ち見つめている。そして言葉を継いだ。 「――君はどうして、私を久島と呼ぶのか?」 そう問われたミナモは、その台詞の内容を把握しかねていた。軽く顔を突き出してその義体の表情を見透かそうとする。少女は無意識のうちに彼の本心を図ろうとしたのだが、義体には相変わらず表情はなかった。 「え…?」 結果的に、先程と同様に彼女は短い声しか発する事が出来ていない。戸惑うように瞳が揺れていた。 そんなミナモを、義体は一瞥する。彼もまた彼女の心情を見通そうとでもするかのように、その顔をじっと見ていた。そしてミナモの唇が未だに動かない状況に、彼は自らの話を進める。 「私は久島永一朗そのひとではない。それは君も理解しているだろう」 義体の言葉にミナモはゆっくりと頷いていた。それは躊躇いがちな動きだった。客観的に見たなら、果たしてそれは本当に理解してのものなのかと思わされる動作である。そしてその動作を見ていた義体はどう思ったのかは、彼の表情からは一切読み取れなかった。 その台詞を発した後の彼の沈黙は長かったが、やはりミナモから答えは返って来ない。それを認め、義体は視線を彼女から外した。瞳を動かし、ゆっくりと天井を見やる。染みひとつなくきちんと清掃されている病室の白い天井が彼の視界に広がっていた。 そして質問を向けている少女を見ないまま、彼は自らの考えを吐露して行った。 「――今の状況を考えるに、他のスタッフ達に私の存在を隠蔽するためには私を久島永一朗として扱うべきではある。それを考慮して君はそう呼び掛けているのかとも考えたのだが、部長代理も以前から私を久島と呼ぶ。それは今の君と同一の心情から発せられるものなのだろうか?」 そこでAIが僅かに語尾を上げた事で、その台詞は疑問文なのだとミナモにも理解する事が出来ていた。彼女は自らの口許に右手を当てる。困ったように眉を寄せた。 そんな少女に義体は再び視線を向ける。少し間を置いた後、台詞を継いだ。 「もし、その仮定が成立するならば、君達は一体どのような論拠で、そのような行動に出るのか?それを私に教えて欲しいのだ」 淡々とした口調で義体はその問いを発していた。そこに人間らしい抑揚はない。黎明期のアンドロイドのように完全な機械体としての口調ではないが、少なくとも感情らしきものは一切感じ取れないような喋り方だった。 考え込むような仕草を見せているミナモは、視線を上向きにする。その義体に続いて、天井の白を視界に入れた。壁に存在する窓の向こうは夜闇に包まれており、何時の間にかに室内灯がぼんやりと点灯していた。その灯りが白を更に目立たせる。 「――だって……あなたは久島さんでしょ?」 ミナモは結局、躊躇いがちにそう答えていた。実の所、彼女自身、自分がどうして彼を「久島」と呼んでいるのか。それを突き詰めて考えた事はなかった。論理的に導き出された結論に拠るものではなく、感覚と直感でもたらされたものだった。 今問われてみてようやく考えてみたが、この答えで果たして正しいのか。自分の深層心理と一致しているのか――そこはミナモ自身にとっても良く判らない。それに、義体が仮定したように自分の考えがソウタと一致しているとも限らないだろう。 一方、答えを提示された久島の義体は改めて少女に視線を向けた。与えられた解答を自らの電脳内で試行する。それはあまりに曖昧な答えだったが、AIとしての思考においても辻褄を合わせる事に成功したらしい。しかしそれと、彼が納得するかは別の話だった。 「確かに私は久島永一朗の記憶と知識を引き継いでいるAIだ。しかし彼のパーソナリティは私とは同一ではなく、そもそも私に人格プログラムはインストールされていない」 義体の口調は相変わらず静かで無感動だった。あまりに変化がないので、ミナモとしても自分の答えが気に食わなかったのかそうでないのか、その推測は不可能である。 彼は色々と説明を加えてきたが、少女には難しい事は理解出来ない。彼女にも確か、9月に彼の部屋を訪れた際に、AI自らの設定について波留真理と小難しい話をしていた記憶はある。しかしその内容は、傍で聴いていた彼女には良く判っていなかった。 そんな状況に置かれ、ミナモは困ってしまう。頬に右手の人差し指を当て、視線を中空に彷徨わせた。 「うーん…――じゃあ、どう呼べば満足ですか?」 そして、結局ミナモは説明を断念した。頬に指を当てたまま視線のみを義体に戻し、全く別の話を振る。 今まで質問してきた側だった義体だが、ミナモに質問を返される。彼にとっては今までの質問については満足な解答を得られてはいないのだが、「人間に質問をされる」と言う行為を彼は受け止めていた。自らの存在意義として与えられたプログラム通りに思考が進められてゆく。 「――…そもそも、用も無いのに私に話し掛ける必要はないだろう」 ミナモを見つめたまま義体はそう言った。彼もまた、ミナモの問いにそのまま解答を与えていない。しかし彼としてはその答えが最善だった。 「ブレインダウン症例」との報道は、久島当人の脳核に限って言えば真実である。そのような状態にある人間に話し掛けても、反応は返って来ないだろう。 無論、何かを期待して話し掛ける人間も存在するものだ。しかし様々な事情からその行動を取らない人間も少なくはないだろう。それを思えば、ミナモがわざわざ意識喪失状態の久島に話し掛ける理由はない。「彼」の論理とは、それである。 義体の言葉に、ミナモは指を頬から離す。その頬が膨らんだ。髪を大きく揺らし、勢い込んで義体に向き直る。 「――そんなの、つまんないです」 あっさりとしたミナモの言葉に、横たわる義体は何も返答出来なかった。何かを言う必要性を感じなかったとも言えるが、それにしては彼は僅かに目を瞬かせている。 向き直った勢いのまま、ミナモは両手を伸ばした。久島の枕元の傍に伸ばす。掌を一杯に広げて彼女はそこに手をついた。 マットレスが彼女の体重の一部を受け止め、僅かに軋んだ。それに伴いへこみ、枕に頭を乗せている久島が顔を傾けた。彼の前髪が額に落ちる。 「折角こんな風にお話出来るのに、そんなの」 ベッドの縁に両手を立てて覗き込んでくる少女を、彼は黙って見ていた。義体のその瞳には、仄かに不思議そうな印象があった。 |