ミナモが車椅子を押して病室に戻った頃には、日が暮れていた。父親と廊下で話し込んでいるうちに、急速に陽が傾いていたらしい。
 こうなると彼女としてもあまり長居は出来ない。他のスタッフとは違って泊まり込んでまでの作業を彼女の兄は許しておらず、実際に泊まった所で特にする事もないからである。
 情報の機密性もあり、送迎にアンドロイドを用いる事も出来ない。彼女は水上バスの本数が充分な時間帯のうちに帰宅する必要があった。そうやって早急に人込みに紛れなければならないのだ。
 車椅子を自動ドアの向こうに導く。隔離病棟とは言え重要人物の入院を受け容れる施設のため、その病室は余裕を持った広さであり設備は整っている。
 ミナモはベッドサイドテーブルに自らの鞄を置く。そして彼女は手馴れた様子で車椅子をベッドに横付けにした。背面を操作し、車止めを作動させる。車椅子をその場に停車させ、動かないようにした。
 そしてミナモは車椅子を回り込む。横に立ち、綺麗にベッドメイクされて掛けられている羽毛布団をいそいそと持ち上げた。それを折り畳んで端に寄せる。その下にあったシーツに覆われたマットレスを、彼女は手で撫で付けた。
 ミナモは腰に手を当て、それを眺めて胸を張る。準備万端と言わんばかりに大きく頷いた。そして彼女は車椅子に向き直る。前屈みになり、腕をそこに収まる久島へと伸ばした。
「――久島さん。移動しましょうか」
 一貫して動かないその存在に対し、ミナモは満面の笑みを浮かべて呼び掛ける。返事を待たずに少女は彼の肩に右手を掛けた。首の付け根の辺りに手を当て、自分の方へと軽く押した。
 左腕は彼の背中に回している。そこに首が力なく傾き、ミナモの方に寄り掛かってきた。次いで上体も押し付けられてきて、そうやって彼女は介助対象者の身体を上手く固定して支える。
 車椅子とベッドの高さは同一となるように調整済みである。彼女は表情に真剣みを増し、抱き抱えた久島の身体を押した。成人男性の基準体重であるその義体だったが、介助士志望の学生としてこつを掴んでいる彼女の動作によって静かにその腰を車椅子からベッドへと移動させていた。
 ミナモはゆっくりと彼の上体をベッドに下ろし横たえる。そして丁寧に両脚を揃えて抱え込み、履いていたスリッパを脱がせつつベッドの中へと引き込んだ。
 普通の介助担当者ならば身体が不自由であっても多少の協力は得られるものだが、この久島の場合は意識を喪失している。それだけに彼女は気を遣い、ベッドへと移動させて行った。
 引っ張り込まれたもののベッドから投げ出されている左腕を、肘の辺りで手に取る。関節の動きに従って楽な体勢となるように僅かに折り曲げつつ、マットレスの上に導いた。その際に病院服の水色の袖口がずれる。ミナモはそこに嵌められた古ぼけているダイバーウォッチを見た。それを覆い隠すように袖口を上げる。他にも衣服を整え、頭の下に枕を敷いてちゃんと寝かせる状態にした。
 そこで彼女はようやく羽毛布団を引き上げ、彼の身体を覆った。肩まで布団を引き上げ、その上にある顔を覗き込む。
「今日は本当にお疲れ様でした、久島さん」
 目を伏せて眠っているような状態の顔に、ミナモは笑い掛けた。動かして乱れた髪を手櫛で梳いて整える。
 それも終えた時点で彼女は顔を上げる。真っ直ぐに立ち、車椅子に向き直った。再び背面に回り込み、それを部屋の隅に撤去しようとする。
 そんな風に熱心に動く少女だったが、彼女の動作音しか響いていなかったはずの室内に人間の声が混ざる。それは静かで小さな声だったが、確実に彼女の耳に届いていた。
「――君こそ面倒だったろう。蒼井ミナモ」
 その低い声に、思わずミナモの足は止まる。今はその声は耳に入る訳がない。彼女はそう思い込んでいた。しかし現実にその声は聴こえてきた。それを認識した瞬間、彼女は物凄い勢いで振り返る。
「…久島さん!?」
 その名を大きな声で叫んでいた。そして少女は慌ててベッドに駆け寄る。
 ミナモが覗き込むその枕元に横たわる顔には、相変わらず表情めいたものは浮かんではいない。しかしその瞼はやんわりと上がっている。義眼として特徴的な深い藍色の瞳がそこにあり、歩み寄って来ていた少女に焦点を合わせていた。
 その状況を認めたミナモは上体を折り曲げた。彼の顔を覗き込む。
「話していいんですか?人目につくから駄目だってソウタが」
 胸に手を当て、ミナモは勢い込んでそんな事を言っていた。彼女が言わんとする事は、それこそ自身の兄から思い切り釘を刺されていた注意事項だった。
 今の彼は正真正銘の「久島永一朗」ではない。電理研のみならず人工島の全ての人々が望むであろう彼の復活の時が訪れた訳ではない。ミナモにもそれは判っていた。
 そんな彼女に義体は視線のみを送る。顔を傾けて向き直る事もしない。只、唇のみを動かして静かに淡々と言葉を紡ぎ出していた。
「この病棟に3日間滞在して把握した。この病室のみは、病棟内においても監視カメラや集音機の類が一切装備されていない。隔離病棟とは言え人工島でのプライバシーの保護は最重要事項だからな。その対象がAIに過ぎない私であっても、設備の追加装備はしなかったらしい」
 義体の言葉を耳にしつつ、思わずミナモは室内を見回していた。きょろきょろと天井の角や置かれた棚の隙間、テーブルの足元などに視線をやる。判る訳もないのに目視でカメラの存在を探ろうとしていた。そして実際に見付けられようもない。彼女には義体の言い分を信用する他なかった。
 しかしこうやって監視の可能性を仄めかされると、彼女としても気になってしまう。裏を返せばこの部屋の外では警備室か何処かで彼女らの動きを監視している事になるのだから。思わず久島に顔を近付けて小さく囁く。
「まさか…ずっと起きてました?」
「スリープモードに切り替える事で自意識は起動せず沈めていたが、機構として時折メタルに接続しセキュリティのハードウェアを探査していた。能動的に探査を行えなかったために、ここまで日数を費やす事となった」
 義体がそのような説明を成していたが、その手の造詣を持たないミナモには全く判らない事情である。要は意識は眠っていたが自動的に最低限の起動を行い、メタルを経由して少しずつ調査を行っていたらしい。ミナモはそう解釈した。
 通信分子が散布されている人工島において、電脳障壁やジャマーが起動していない一般的な状況下では、誰もがメタルに普遍的に接続する事が可能である。そしてこの隔離病棟にもそのような装備はない。黙っていても接続は可能であり、この義体もそれを利用していた事になる。
 が、そのような行為をやっていたとなると、問題が発生する。自分が突っ込むまでもないとは思ったが、念のためにミナモはそこに触れていた。
「…それ…お父さん達にばれてないですよね?」
 この義体とそこに収まった脳核は、この3日間ミナモの父達に検査をなされている。ケーブルに繋がれて様々な計測を行われていた。その観測に、この義体が試行し続けていたメタル接続が引っ掛かっていたならば、とてつもない大事に発展するだろう。
 恐る恐ると問うミナモを、義体の瞳が見据えた。しばしの沈黙の後、彼は口を動かして短い声を発する。
「おそらく」
「…ええー…?」
 義体の平然としたその答えに、ミナモは呆れた表情を浮かべ、間延びした声を上げていた。
 
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