夕陽は水平線の向こうにその身を沈めつつある。海洋公園付近からはそれを充分に目視する事が出来ていた。 波留真理はドリーム・ブラザーズの前に立ち、深々と頭を下げていた。その間も強い海風が吹いてきて、彼の長髪や纏っているエプロンの裾を大きく吹き流してゆく。しかし彼はそれに動揺する事もなく、礼儀正しい一礼を続けていた。 彼が頭を下げている先に伸びている舗装路では、数人の女性達が歩いて行っている。波留の方を時折振り返る女性も居たが、それも姿が小さくなるに従い回数が減少して行った。その間も波留は一貫して一礼を続ける。 そのうちに女性達の姿も舗装路の向こうに消える。その時点でようやく波留は頭を上げた。口許に笑みを浮かべたまま、海風で乱れた前髪を掻き上げる。ダイビング直後のシャワーを経たその髪は未だに生乾きであり、指の間に水分を感じた。その髪が風を含み冷気を漂わせていた。 今日は日曜であり、このダイビングショップの非常勤の身の上である波留が努めて店に入るように心掛けている曜日だった。彼は自分が店に居るこの日にダイビングの予約客を受け入れるように予定していた。 そして今日もその予定をこなし、その客を見送った所だった。彼の担当日は何故か女性客ばかりになりがちなのだが、それについて彼は特に疑問を抱く事はない。しかしフジワラ兄弟は客の予約リストを眺めては奇妙な溜息をついたり、兄に限っては若干やさぐれたりするものだった。 客が全員帰宅した今、店内を片付けなくてはならない。このドリーム・ブラザーズにて、波留の担当日のみにはダイビング後に紅茶などのサービスがなされるようになっていた。波留が直に淹れるそのお茶は、味自体も好評を博している。彼が店員をやるようになった8月以来、この店のみのサービスとして名物扱いで定着していた。 吹き抜ける海風の中、彼はドリーム・ブラザーズの店舗を振り返る。ガラス張りの壁面の向こうには店舗内の様子が垣間見えるが、そこにあるのは観葉植物の鉢植えや様々な家具のみだった。人影は見えない。 今日も彼は留守を預っている立場である。家主であり店長達であるフジワラ兄弟は彼に全幅の信頼を置いており、彼担当の日には安心して電理研にてメタルダイバーの仕事を行っていた。 客を帰した今、事後処理は色々と山積みとされている。今日の経理作業を始めとして、使用した機材のメンテナンスと補充、店内や船内の清掃なども抱えている。日も暮れてくると難しい作業も出てくるが、やれる事は今日中にやっておくべきだった。 そうなると、必然的に野外で行う作業を優先すべきとなる。波留は店舗の脇の通路を抜け、ハーバーへと歩みを進め始めた。そこには店舗所有の船が停泊している。本格的な清掃は後日行うにせよ、最低限のメンテナンスは今日中に行うつもりだった。 海に面した事で風は更に強さを増し、波留は髪を無造作に揺らされ続ける。沈む夕陽が赤く海を染め上げ、強い風に流れる雲が帯を成していた。 その風景を遠目に眺めつつ目的地に辿り着いた彼は、ロープで係留されている船の甲板に身軽に飛び乗る。勢いをつけた成人男性の体重を受け止めた船はその分僅かに沈み込むが、軽く揺れた後に安定を取り戻した。 飛び乗った波留も足元をふら付かせるが、船同様にすぐにバランスを確保する。その拍子に膝を曲げ足元に視線が行った。そして真っ直ぐに立つと顔を上げ、視界の向こうに海を見出していた。夕陽の赤に空の蒼さと紺碧の海が混ざり合う美しい光景を目の当たりにする。 波留は、その揺らいだ視界の先にある水平線に、鈍く輝く流線型の存在が跳ねたのを見た。 それを眺めた彼は、目を細める。様々な色彩を帯びたその一帯を眺めた。その波間を縫うように小さく丸い頭が現れてはその身を隠してゆくのを見た。 甲板に立ったまま微笑を浮かべて海の向こうを見ている波留だったが、海風を受けているうちにその表情も僅かに曇ってゆく。笑みの印象が寂しげなものへと変わっていった。 ――どうしてこの子には、僕しか出会う事が出来ないのだろう。 7月末のあの日以来、僕はこんなにも当たり前に出会う事が出来ると言うのに、何故他者の前では一貫して姿を見せないのだろう。彼が人前から姿を隠そうとしているにせよ、ダイビングしている人間達に偶然出会う事もないとはどういう事なのだろう。 そこに何らかの意味を見出すべきなのだろうか。彼はそれを思うが、結局は何も判らないままだった。 |