ブレインダウン症例からの治療が決定した久島が入院したのは、電理研付属メディカルセンターである。 この医療機関はその名の通り電理研直属の組織であり、その利用者は多岐に渡っていた。各種公立学校の定期健診からメタルダイバーの電脳検査やその治療までをこなし、何より人工島における電脳化の施術もその殆どがここで行われる。そのため、人工島で生まれ育った人間ならば世話になった事はないとまで言われる病院だった。 そのように一般的に開かれた施設なのだが、その業務によって得られた島民の個人情報を管理する一面も保持しているために、そのセキュリティも電理研直属を名乗るに相応しいものとなっている。メタルの領域は強固な防壁によって切り分けられ、重要機密情報はスタンドアロンのサーバに保存されていた。 高度なセキュリティが講じられているのはメタルばかりではない。リアルにて物理的に対処されてもいる。具体的に表現するならば、重要な患者を収容するための隔離病棟が存在していた。そこに勤務する人員は必要最低限であり、病棟への出入りも厳しく制限されていた。機密に対してもっとも原始的な防壁を築いている訳である。 久島部長の入院は電理研と評議会の決定事項だが、同時に極秘事項でもあった。 彼は7月のテロ以降一切姿を見せていない。そしてマスコミ関係者を始めとしてアンダーグラウンドのダイバーまでが彼の動向の情報を入手しようとしていた。彼の現状の情報は島民の誰もが知りたがっており、その情報の価値は相対的に非常に高いものとなっていたからである。しかしその彼らの試みは、リアルとメタルの双方の海においての電理研最深部に存在する久島部長のプライベートルームが保持する最高レベルのセキュリティに阻まれていた。 そんな状況であっても、そのセキュリティの綻びを虎視眈々と狙う骨のあるハイエナ達は消え去る事はない。そこに「久島部長はメディカルセンターに入院しました」などと言う公式発表を出す事は、誰がどう考えても飢えた猛獣の群れに骨付き肉を放り込むに等しい行為だった。 そう言った事情により、現状の久島には更に秘密が付き纏う事となっている。 彼は隔離病棟に運び込まれて以降、病棟外はもちろんの事、病棟内であっても行動の自由は許されていない。無論、意識喪失状態である彼はそもそも自由に動く事が出来ないのだが、彼の車椅子を押す介助人である蒼井ミナモも病室と各種検査室との行き来を余儀無くされていた。 重要患者対象の隔離病棟であるために、その内部施設はこの病棟のみで完結するようになっている。全ての医療行為がここで可能であるため、検査と治療においては困るような事はない。 そして今回のこの治療に関わる人員も、隔離病棟であるからには最少人数である。介助担当のミナモは別格として、メディカルセンターから赴任している医師と義体技師が各ひとりずつ。サポートのための人員は、アンドロイドを含めてそれ以上投入されていない。 そして意識のメタルを調査し、電理研として彼らの部長の検査を監視するための人員として、蒼井衛が送り込まれていた。その人事は、統括部長代理である蒼井ソウタからの使命である。そして衛はミナモ同様にソウタの実父だった。 この決定に関して、ソウタはやはり「身内人事」との批判を受けていた。しかしソウタはそこに明確な反論を加えている。 ――蒼井衛は久島部長から信任を受け、例の超深海ダイブに向けての機材の開発と準備を極秘裏に手掛けていた人物です。この一件についても、彼ならば冷静かつ真摯に対応してくれると期待します。 そして5月の電理研システムダウンの責任を取り課長職を辞してはいますが、メタリアル・ネットワークと言うシステムに関する知識は、久島部長がこのような状況に陥っている今、彼が人工島随一と思われます。久島部長の意識回復はメタルからの奇跡のようなアプローチをも期待しなければならない以上、この人事が適当かと思いますが、いかがでしょうか――? ――ソウタのその論理に反駁出来た人間は、結局電理研にも評議会にも存在しなかった。 それは、彼が駄目押しに「もしこの人事に反対なさる方が多数ならば、久島部長の親友にしてメタル操作に関して世界随一の実力を持つと思われる、電理研委託メタルダイバー波留真理氏にこの一件を依頼してもいいかと、久島のぶ代女史にお伺いを立てましょうか?」と半ば脅しのように同席者達に持ち掛けたのも大きい。 波留真理と言う人物は、委託ダイバーとは言え所詮は外部の人間である。契約を盾にした所で、こちらからの全ての命令に従うとは限らない。そしてその彼の実力を鑑みるに、メタルにおいて彼が何かを企んだ際にそれに対抗策を講じる事が出来る能力を持つダイバーの確保は、非常に難しい。ならば、電理研職員である蒼井衛を投入した方がまだ御し易いだろう――衛の起用に当初渋っていた人々はそのように消極的賛成を行い、またソウタもそれを狙って波留の名前を出していた。 以上のように非常に高度な政治的判断が加わった結果、蒼井家の父とその娘は、各々に抱えた業務こそ違えど、この隔離病棟で同じ仕事に携わっている。 娘はその事実を、興味を持たないが故に知らないままである。父も特に息子から言い含められてはいないが、その50年強の人生にて一度は人工島を支配する大企業の管理職まで上り詰めた人物である。状況証拠から、その手の駆け引きを窺い知る事は出来ていた。 蒼井衛の前で、ミナモは笑顔を浮かべて久島の車椅子を押している。時折話し掛ける行為は、昏睡状態の患者に対する呼び掛けのようなものだろう。それもまた、部長への治療の助けになり得る行為に違いないのだろう――彼は目の前で行われているその光景に対し、そう判断を下していた。 「――お父さん。私、そろそろ久島さんを病室に連れて行くね」 夕陽を浴びつつ、ミナモは顔を上げて父親に対してそう声を掛けていた。その台詞に衛は我に帰る。自らの思惟から現実に戻った。 「…ああ。くれぐれも久島部長を頼む」 「お父さんこそ、久島さんの検査結果の解析、頑張ってね」 父と娘は自然にそのような会話を交わしていた。ミナモは良い笑顔で父に元気一杯に頷いてみせ、それを目の当たりにした衛は思わず口許が綻んでしまう。 「それにしても、お父さんとこんなに話したのって久し振りって気がする」 「そうだな」 娘の台詞に衛は頷いていた。 ミナモはこれまでも電理研で働く父の元に差し入れの弁当などを持ってきていたが、多忙な業務を抱える父に遠慮して長居はしていない。だと言うのに今回に限ってはこのような伸びやかな時間を過ごす事が出来ていた。 「そう考えると、久島さん云々置いといても、このお仕事受けて良かったよ」 笑顔でミナモにそのように言われると、衛は流石にぽかんとした。この仕事ではかなりの時間を拘束され、現状においてその期間は計り知れない。人工島最高機密に触れている以上、精神的なプレッシャーも凄まじいものがある。 だと言うのに、この少女は何処までもポジティブシンキングらしい。我が娘ながらその考え方には、彼は感動すら覚えていた。 「こうなると、ソウタが居ないのが不思議な気分だな」 衛の心境をよそに、ミナモは相変わらずマイペースで言葉を続けている。確かに父と娘の団欒めいた事をやっているというのに、そこに家族の一員であるソウタが居ないのだ。 人工島外で海洋学者として働いている母ミズホはともかくとして、今度は島内に居るソウタと顔を合わせるのが難しい環境となっている。なかなか上手く行かないものだと衛は思った。 ミナモは衛よりも頭ひとつ分背が低い。ソウタは自分と同じ位の背になっていたと思うが、もうひとりの娘の場合、これは年頃の娘の平均値なのだろうか?――なかなか交わす機会がなかった会話を続ける中、衛はふとそんな事を思った。 そんな穏やかな気分のまま、彼は話を持ち掛ける。 「この仕事が落ち着いたら、家族で食事でもしようか」 「それいい!私が何か作るね!」 衛の言葉を受け、途端にミナモが胸の前で両手を打ち合わせた。飛び上がらんばかりの態度を見せ、身体全体で喜びを表現する。その上下動により、彼女が提げた鞄が大きく揺れた。 ミナモの両手が離れた車椅子も微かに揺れる。そこに腰掛けている久島の顔も干渉して僅かに揺れ、先程ミナモが整えた前髪が再び目許に掛かるまでに落ちていた。 それでも彼は一切能動的には動こうとはしない。至近距離で行われている楽しそうな親子の会話を聞き流し、窓からの夕陽を病院服を纏った全身に只浴びていた。 |