廊下に規則正しく並ぶ窓からは、赤い夕陽が差し込んできている。垣間見える空は赤く染まり、点在している雲と微妙な陰影を作り出していた。
 ミナモはその廊下を、車椅子を押しながら歩いてゆく。病棟内の廊下だからか、その道幅は車椅子を通過させていても往来するには充分に余裕があった。
 しかし今ここを通っているのは彼女らしか居ない。広い廊下の床に夕陽を受けた窓の影が大きく斜めに切り取られ、ミナモ達はその上を静かに進んで行っていた。
 車椅子の持ち手を掴んで押しつつ、ミナモは肩に提げている鞄の肩紐がずり落ちないように気を遣う。ポシェットと言うには若干大振りなその鞄の側面にはポケットの類が結構揃っており、ミナモはそれらを活用していた。結果的にその鞄は内側から膨らんでいて、彼女が歩く度に腰の辺りで揺れていた。
 今日は日曜であり、終日検査が行われていた事になる。久島のぶ代が条件としたように、ミナモ同席の元でなければ久島に対する検査と治療行為は一切出来ない。しかしミナモは現役の中学生である。第一にすべきは勉学であり、平日はそれを優先していた。
 彼女が抱えるこの仕事は「電理研からの依頼」なのだから、学校にその旨申し送れば一定日数を休んでこの検査を進める事も可能である。しかしそれについては、そもそもの依頼主である統括部長代理が難色を示していた。その辺りからも、彼の微妙な心境を窺い知る事が出来るのかもしれない。
 結果的にミナモは、学校帰りには確かにここには毎日通っていた。しかし未成年者でもある以上、日が暮れる頃には帰宅する必要があり、この病棟に滞在出来るにせよそれは2,3時間と言う状況である。そんな短時間では、大した事は出来ない。
 そのため、依頼を受けて初の休日であるこの日曜を迎えるに当たっては、朝から病棟に出向くように医師達から頼まれていた。ミナモとしてもそれを断る要因は何もなく、休日にしては早起きして素直に顔を見せている。そして宣言通りに陽が暮れるまで、しっかりと拘束されていた。
 夕方の病棟を歩きつつ、ミナモは溜息をついた。検査中はああやって眺めている事しか出来ず、やっている事も大して理解している訳でもない。そのくせ時間だけは淡々と流れてゆく。それに疲れを覚えていた。彼女のための昼食の時間には名代が不在になる以上検査自体も中断されたものだったが、そんな特別扱いは彼女にとっては却ってプレッシャーになる。思わずその休憩も早めに切り上げてしまっていた。
 少女が押す車椅子には、その終日に渡って計測機材に繋がれていた義体が収まっている。しかし今となってはそれらのケーブルも外され、展開されていた頭部フレームも首筋の接続端子もすっかり隠されていた。背後から見ていると、本当に人間の入院患者としか思えない。
 彼はうたた寝でもしているように俯き加減に顔を傾け瞼を伏せている。車椅子を押される動きに僅かにその上体を揺らすのみだった。前髪が揺れ、目許に掛かる。ミナモはその様子を見て、微笑んだ。
「――久島さんも、疲れたよね」
 少女はそんな事を言った。車椅子を押す手を持ち替え、左手のみにする。そして若干スピードを落とし、前屈みになった。座る久島を後ろから覗き込む。右手を伸ばし、落ちてきていた彼の前髪を指の間で梳いて整えた。
「折角の日曜だけど、波留さん何してるかなあ…。やっぱりドリーム・ブラザーズでお仕事だろうから、私が遊びに行っても邪魔になっただろうな」
 彼女は久島の髪を整えつつ、そんな言葉を呟いている。前屈みになっていた彼女の体勢では、まるで久島の耳元で囁くような状態になっていた。
 少女が言葉と共に想いを馳せているのは久島にとっての親友の現状だったのだが、当人は一切反応を見せない。義体の人工頭髪を撫で上げられ少女の指が眉間に触れても、まるで眠っているかのように沈黙を続けていた。
 その様子をミナモは気にしない。笑顔で頷き、髪を梳く手をそっと抜いた。
「だから、私としては今日1日久島さんと一緒に居て、丁度良かったです」
 彼女は満面の笑みを浮かべ、相変わらず久島の耳元でそう言う。動作しない義体に対して、まるで話し掛けているような行動を続けていた。
「多分こんな状況が暫く続くと思うんですけど、お姉さんが心配しないようにお互い暢気にやって行きましょう。久島さん」
 ミナモは自分の言葉に勝手に納得するように何度も頷いていた。勝手に久島の気持ちをも代弁したような状態になっている。彼女の動きに合わせ、腰の辺りで鞄も軽快に揺れていた。
 そこで一旦話を打ち切る。彼女は顔を上げ、前を見据えた。そのまま歩いて行こうとする。しかしその廊下の向こうに、何時の間にかに人影が立っていた。どうやら向こう側から歩いて来ていたらしい。
 その神経質そうに眼鏡を掛けた電理研職員は、彼女に対して声を掛ける。
「――ミナモ」
「お父さん!」
 ミナモは自らの父を認め、声を上げて呼び掛けていた。爽やかな笑顔が彼女の顔に現れる。
 父と娘は車椅子の義体を従え、廊下の中央で足を止める。病棟においては迷惑な立ち話にもなりかねない状況を作り出していたが、現状において彼ら以外の人間の姿は全く見えなかった。
 蒼井衛は小脇には様々なファイルを抱えている。それらはペーパー型モニタの一種であるために軽量化されてはいるが、彼はメタルのデータに頼らない形でそれらを持ち歩いている事になる。その行為はデータの保存形態を特殊なものとする事により、データの散逸を防ぐ意味合いが強かった。端的に言うならば、機密データのセキュリティ対策である。
 ともあれ、彼は口許に曖昧な笑みを浮かべていた。年頃の娘にどんな顔をしていいのか判らない。そんなごく有り触れた父親像がそこにはあった。
「お前には色々と面倒を掛けているな」
「いいよ、久島さんのお姉さんから頼まれた事だもん。私に出来る事をするだけだよ」
 どのように感情を表すべきなのか戸惑っているかのような口調で衛はミナモに対して話し掛けると、ミナモはとてもあっけらかんとそう答えていた。車椅子の持ち手をしっかりと握ったまま父親を見上げて笑顔で告げる。
 娘のその態度に、父親は少々目を瞠っていた。その瞳の表情は、眼鏡に隠れて娘からは良くは見えない。――どうやら兄の事は眼中にない様子だ。彼は娘の言動からそう感じたのだった。しかしそれは兄の事を嫌ってのものではなく、単にその「お姉さん」を大事に思っているだけなのだろうとも気付く。
 衛は娘からゆっくりと視線を外す。その隣に居る車椅子の人物に視線を落とした。その久島は相変わらず眠っているかのような状態に陥っていて、隣で行われている親子団欒も無視している。
「…久島部長にも、御苦労をお掛けする事になったな」
 その言葉を発した時、衛の声は僅かに沈んでいた。眉を寄せ呟くように言う。目の前に娘が居ると言う意識もなくなっていたかもしれない。
 それにミナモが反応した。軽く背伸びして顔を上げ、車椅子の持ち手を握る両手にも力が篭る。娘はそうやって、成人男性の背の高さを持つ父親を懸命に見上げていた。
「でも、ここで治療を続けたら、久島さんが治るかもしれないんでしょ?だったらきちんとしなきゃ駄目だよ」
 口を尖らせてそんな言葉を突き付けてくる娘に、父親は僅かに腰を引かせていた。思わず一歩後ずさる。それはとても真っ直ぐな正論であり、実際に今行うこの治療の建前だった。その奇跡を信じて彼らはこの作業を行っているのである。
 しかしシステムメタルの管理を長年行ってきた実績を持つ衛は、どうしても現実的な観点から自分の作業を鑑みてしまっていた。――久島部長の意識はメタルに溶け、そのメタルは初期化された。再起動した今のデータが残っている訳がない。彼はそう思ってしまい、治療の成功を信じ切れて居ない。
「それはそうだがな…」
 立腹したのか頬を膨らませている娘を視界の下方に置きつつ、衛は困った風にそう言った。ファイルを持たない左手を頭に伸ばし、短い黒髪を掻く。
 そんな父親を見上げていたミナモだったが、首が疲れたのか爪先立ちしていた足をきちんと床につける。そしてまた前屈みになり、車椅子に座る人物に対して顔を近付けた。
「――波留さんが、きっと待ってるよ。久島さん」
 ミナモは視界に久島の横顔を映しつつ、柔らかな微笑みを浮かべてそう話し掛けていた。そんな彼らに窓から夕陽が差し込み、赤く染め上げる。
「私もお手伝いするし、お姉さんもそれを望んでるよ。だから早く治して、皆とまた会おうよ」
 意識が喪失したままであり問い掛けに答える訳もない担当患者に対して優しく話し掛け続けるミナモのその姿に、衛は娘の新たな一面を見たような気がした。今までは若いのに一体どういう心境かと奇妙に思っていたが、このような言動を取れるのならば、確かに彼女が介助士を進路として志すのをも理解出来た。
 
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