蒼井ミナモがあのアンティーク・ガルでの兄からの電通を受け、電理研部長オフィスに呼び出されてから、既に3日を経ている。当初は驚きをもって迎えたこの状況だったが、それにもようやく慣れつつある今日のこの頃だった。
 あの後、彼女はサヤカとユキノをアンティーク・ガルに残し、急ぎ兄の元へ向かっていた。ソウタは波留ではなく、ミナモに依頼したい事があると言ったのだ。しかもそれは電理研統括部長代理としての行為だとも言う。それがどこまで凄い事なのか、ミナモは波留のバディとして過ごしているこの数ヶ月間に良く判っていた。
 どういう事情なのか訳も判らないのだから、まずそれを問い質したい。その思いで彼女は電理研へ直行していた。
 そして少女は程無く部長オフィスに到着する。その道程は、どう見ても場違いな中学生が電理研の中枢へ向かって歩いてゆく代物だった。通りすがりの職員達に訝しげな視線を送られた回数は数知れない。
 しかしその時歩いていたのはミナモ独りではなく、エントランスで合流したホロンの先導があった。電理研の秘書としての制服を纏った公的アンドロイドを伴っている事を知ると、疑いを抱いた誰もが一転して納得していた。情報提供者か何かの実験の被験者か――とにかく何らかの事情があって、何処かの部署がこの子を呼び出しているのだろう。そう言う共通した思いを各々が抱き、彼女を見逃している。
 兄の元に辿り着いた妹は、彼から事情説明を受ける。そしてその話の展開に唖然としていた。
 実の所、それを語る兄の方も結構な顔をしていたのだが、妹は自分の事で手一杯でありそれどころではない。兄共々オフィス内の応接スペースに腰を落ち着け、秘書の任に就いている公的アンドロイドであるホロンから紅茶を淹れられても、何時しかそれに口をつける事を忘れていた。
 統括部長である久島永一朗は、7月のテロ以来ブレインダウン症例に陥っている。メタルに意識が流れ、それ以降にメタルが初期化した今、彼の回復の見込みはない。しかしそれでも人工島の創始者のひとりである彼を電理研は放っておく事は出来ない。そのために彼は電理研内の最奥に存在するプライベートルームにて加療中である――久島の現状については、それが建前となっていた。これが一般的に報道されているだけではなく、電理研に所属する殆どの職員も地位を問わずこの説明を事実だと信じている。
 実はその説明には嘘が含まれ真実が隠されているのだが、それを知る者はこの人工島内には両手で数え切れる程度しか存在しない。島外の人間を含めても似たようなものである。
 そんな虚実をない交ぜにした状況下において、電理研幹部や評議会は、一旦は久島の脳核から記憶と情報とを引き出そうとした。しかしその提案は、久島の唯一の血縁者であり実姉である久島のぶ代に最終的に反対され、頓挫する。姉は弟を脳死状態にあると認める事を良しとはしなかったのだ。
 血縁者に反対されたため、意識がない状態の久島の脳核から情報を引き出す事は、法的にほぼ不可能となった。それでも久島がその脳に所有している情報は、人類の宝足り得るものである。それをこのまま死蔵しておく事は人工島の未来のためにも良くない事態であると認識した彼らは、別の手段を講じる事となる。
 今までは「加療中」と言いつつも、結局の所は何もしていない現状だった。しかしこれからは、ブレインダウン症例からの回復のための治療に専念させる事にしたのである。
 確かに意識回復の見込みはないのが、論理的帰越である。しかし未だにメタルには謎が多く、彼らはそれに賭けようとした。そこには「初期化されたはずのメタルに、再起動直後から何故か様々なジャンクデータが残っていた」と言う事例をも考慮されている。
 ブレインダウン症例の治療となると、本格的に患者の意識に働き掛ける事となる。全身義体である久島の場合、義体を外部から操作して脳核に直に物理的に接続する事も視野に入れる必要があった。
 そうなると、やはり当人や親族の同意が必要となった。これは前回の案件とはまた別件であり、また改めて唯一の親族である久島のぶ代に同意を求めなくてはならない。煩雑ではあるが、法的に外堀を埋めていかなくては禍根を残す事となるために仕方がなかった。
 結果的に久島の姉は、弟の治療については同意した。
 その際に彼女は「先の依頼では脳死を認めろと言い出しておいて、今度は治療するとのたまうとは、本当にあなた方って面白い人達ね」と皮肉めいた笑みを浮かべて電通形式での連絡を寄越して来ていた。直接の交渉相手となっている部長代理蒼井ソウタは、それに同意したい心境には違いなかった。
 しかし彼女の意見はそれに留まらなかった。未電脳化である彼女の立場では前時代のテレビ電話形式でソウタと電通を行っているのだが、画面に老いたものの美しい微笑みを映しつつこんな風な事を述べたのだ。
 ――私、あなた方はとてもとても信用出来ないけれど、あなたの妹さんだけは本当に信用しているのよ。
 だから、蒼井ミナモさんを、この件についての私の名代に指名させて頂くわ――。
 ――その申し出を老獪な女性に喰らった瞬間、ソウタは本気で仰け反っていた。まるで何らかの格闘技をまともに受けたような状況に陥る。電通上では絶句してしまい、その回復にはかなり長い秒数を必要とした。
 自分の妹はそこまでこの老女の心を掴んでいたのか、一体何時の間の出来事だったのだと言う驚きが最初に来た。そしてその一瞬後には、この件にも妹を巻き込むのかとの焦りが続く。
 思えば先の一件においても、久島のぶ代と言う人物は「妹の前で言えないような事を依頼しようとしているのか」とやんわりと問い質してきていた。どうも彼女は「久島部長の弟子」に対して試練を課す事を楽しんではいないだろうか――と、若き部長代理は勘繰りたくもなる。
 しかしながら、いくら弁説を用いても、この姉君は自らの意見を翻す事はないだろう。特に、未熟な自分が説得出来る訳もない。ならば、ソウタはその条件を飲むしかなかった。
 そして統括部長代理の妹が、この一件に絡むのである。内密に進められたこの一件を知る者達に「身内人事」との謗りをも受けそうになっていた。
 しかし、これは久島のぶ代からの指示である。この妹をこの一件に噛ませなければ治療の許可を出せないと言うのだから、仕方ない処置だろう――そうやってソウタは他者からの批判を交わしていた。
 こうしてミナモは「治療に際しての久島部長の介助」の依頼を、電理研部長代理たるソウタから正式に受ける事となった。彼女はひとしきり動揺したもの、「久島のお姉さん」に頼られてしまっては、それを拒絶する気にはなれなかったのだ。
 ともあれ介助も何も、現在の彼は意識が失われている義体なのであり、女子中学生には何もする事はない。だから、彼女の立場は大いなる建前ではある。
 しかし彼女は名代として治療を見守らなくてはならない。技師や医師が何か変な動きをしていないのか、それを見張る必要があった。
 勿論ミナモは只の介助士志望の中学生であり、電脳や脳、義体などへの専門的な知識はない。その辺りもフォローするために、ソウタは更に手段を行使する必要に迫られる事となった。
 これらの決定を下した電理研幹部や評議会の人間達の殆どは、久島の真実を知らない。そして真実を知る一握りの者達は、それを守り切る必要があった。
 ミナモ達は今、そう言う状況下にあった。
 
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