リアルの海を相手にするダイバーとしての一般論を、波留は簡潔に述べて行った。もし興味があるならば何時でも予約して下さい――そんな営業文句を付け加える事も忘れなかったが、銀髪の少年からの反応は芳しくなかった。
 どうも彼はナイフを入手したいくせに、ダイビングそのものには興味を持っていないらしい。となると、結構物騒な話にもなり得る。しかしその辺りには、波留は「許可を取るのは難しい」ときちんと釘を刺したつもりだった。実際、少年からはそれ以上のナイフの要求はない。
 説明を終え、波留は壁に向き直る。展示用と実働用を兼ねていたそのダイバーズナイフを壁に戻した。その彼の背中に少年の声が届く。
「――リアルの海では戦わないって…あんた、メタルじゃあんなに強いじゃないか」
 それは羨望ではなく、何処か呆れたような口調だった。それを認め、波留はゆっくりと振り返った。口許にははにかみ笑いを含めている。照れたような笑みを浮かべ、彼は少年の一応の賞賛に対応した。
「メタルにおいては僕の短刀は攻撃プログラムの一種です。そして鮫などの海洋生物も結局は思考複合体でありプログラムとして解釈出来る以上、僕達の対決はプログラムの精度と威力を較べているに過ぎません。どのタイミングでどのファイルにどのワクチンを投与すれば効果的なのか――つまりはそう言う事ですよ。あなたは人工島外ではコーディング専門のプログラマーらしいですが、やっている事はメタルダイバーとしてメタルの海にログインしても同じです」
 カウンターに戻って来ながら行うメタルの常識的な次元に留まった波留の説明に、少年は溜息をついた。目の前にあるグラスに視線を落とす。内容物は僅か数センチとなっており、そのグラスの表面にはびっしょりと汗を掻いていた。それらが重力に従い下へと垂れてゆき、紙製のコースターに吸い込まれて行っている。
「――…この前の鮫退治で思ったんだけどさ。あんた、独りでもあの依頼こなせただろ」
 その問い掛けに、波留は意外そうな表情を浮かべた。少年が指す「鮫退治」とは、具体的には10月初旬にフジワラ兄弟を含めての彼らがこなした案件である。しかし彼はどうしてそんな事を言うのだろう――波留は疑問に思った。あれほどまでに危険な任務だったのだ。とりあえず、やんわりと否定する。
「そんな事ありませんよ」
「嘘付け。あんなにあっさり、一撃で破壊したくせに」
 速攻だった。少年は口を歪めてそう反駁する。どうも拘るようだった。
 やはり彼はあの鮫にとどめを刺しきれず襲われかけ、そこを急浮上してきた波留に救われた事が負い目になっているのかもしれない。ましてや波留は急浮上した事で減圧症に陥る可能性もあったのだ。自分が未熟なせいで――そんな事を思っているのだろうかと波留は推測する。
 その気持ちは判らないでもないが、少年からこのように過剰に評価されるのは間違っていると彼は思う。だから微笑を浮かべつつも交わしてゆく。
「あれは、皆さんが事前に鮫に攻撃を仕掛けて弱体化してくれていたからですよ。僕独りではとてもとても」
「でも、あんたが鮫を誘導するログを後で見たけど、結構余裕で逃げてたじゃないか」
 波留が苦笑を交えてそんな事を言うと、やはりすぐ少年は食って掛かってくる。しかし波留にとって、それは買い被りだった。あの時、彼に心の余裕などはなかった――誘導し逃げる事に完全に必死に没頭してしまっていては危険は増すために、冷静さは保ったままではあったとは思っている。それを「余裕」と言うならばそうなのかもしれないが、波留としてはそうは思わない。
「そうですね…仮に僕独りでも倒せたとしましょう」
 波留はその仮定を認めた。ここまで絡まれているのに何時までも謙遜していては、相手にとっては厭味にもなり得ると感じたからである。しかしその先に続ける台詞は、自画自賛するようなものではない。
「しかしそれは、100%完遂出来ると確信出来るレベルでなければなりません。あの鮫型思考複合体の確実な排除こそが、僕があの時電理研から依頼された案件でした。そして僕の能力ではまだまだ単独行動での100%完遂のラインには持っていけないと判断し、それは今でも正しいと思っています」
 少年は何度目かの溜息をついた。そのラインで納得する他ないらしいと悟ったようだ。そして皺が寄る眉間を指で押さえる。あの時の記憶を思い起こそうとする素振りを見せた。
 それはとても鮮明な記憶であったようで、彼はすぐに台詞を発する。今までのぼやくような口調に戻っていた。
「――あの時のあんたは、まるで魚を捌くみたいで…鮫への攻撃には何の恐れも躊躇いも抱いてなかったよな。リアルのダイバーでもあるくせに」
「当たり前です。あれはプログラムですよ?リアルの海に生息するような、血の通った生物ではない」
 今度は波留が即答する番だった。彼は微笑みを絶やさず、当然の事のようにそう答える。
 仮にリアルの海において暴れる鮫が居て、何らかの事情で自分が倒さなくてはならないとすれば――銛なり水中銃からの弾丸なりを撃ち込まれ血を流すその獰猛な鮫を見たなら、やはり厭な気分になるだろう。身を切られるような思いに至るに違いない。海洋生物を手に掛けるなど考えたくもない。それが海を愛する波留真理と言う人物だった。
 しかし、それは彼らがリアルに在る限りの話である。メタル内の鮫達はあくまでもそのアバターを選択したからに過ぎず、その本質は0と1の集合体だ。その何処に同情し、感情移入しろと言うのか――彼はそうも思ってしまうのだ。
 それ以上の言葉は、ひとまず少年から帰ってこない。話の区切りがついたようだと感じ、波留はふと現在時刻に意識を向けた。わざわざメタルに接続するまでもなく、左手首に嵌めているダイバーウォッチに視線を落とした。そこにデジタル表示されている時刻を認識する。
 すると波留は、その手首を顔の前に持ってきた。時計の画面を改めて眺めつつ、口を開く。
「――と、あまり遅くなっては終電に間に合いませんよ」
 その言葉に少年は顔を上げた。波留のアピールしてきた時刻に、彼も気付く。確かに時刻はかなり遅くなりつつあり、普通の人間はそろそろ眠りに就いてもおかしくはない時間帯だった。
 少年は波留の言葉に頷き、目の前のグラスを右手で掴む。ストローを避けつつ、グラスに直接口をつけて煽った。少量ながら残っていたミックスジュースを一気に飲み干す。そして空になったグラスをコースターの上に戻す。結露した水に濡れた紙製のコースターは柔らかくなっており、グラスとカウンターとの間に挟まれて鈍い音を響かせていた。
 そして銀髪の少年はカウンターの席からその腰を下ろす。軽く弾みをつけて靴を床に着け、音を立てた。右手を挙げて波留に挨拶を行い、立ち去ろうとする。その背中に波留は声を掛けた。
「宜しかったら、近くの水路に水上タクシーを呼びましょうか?」
 少年はその勧めの言葉に足を止めた。首だけを巡らせ、波留の方を振り返る。面倒臭そうに右手をひらひらと振りつつ言う。
「いや、いいよ。歩いて帰れるから」
「海洋公園は広いですよ?」
 自分の返答に対して若干心配げな表情を浮かべた波留を遠目にした少年は、きょとんとする。しかしすぐに口許に笑みを浮かべた。
「何、地下通路入口まで辿り着ければ、後はエレベーターですぐだ。――俺、あんたらと違って、陽の当たる場所に住んでないから」
 その台詞を耳にした時、波留は少年が浮かべている笑みに別の意味を見出していた。あまり笑わない人間が笑う時、それを目の当たりにした者はそこに何かを感じ取ってしまうのが常である。
 その大半は錯覚に過ぎないとも波留は判っていた。大体この少年は実際に地上区画ではなく、地底区画に存在する単身者用のワンルームマンションに居住していると、以前リラクゼーションルームにて会話した際に訊いていた。その諧謔めいた表現だと思えば、何の問題もない。
 しかしそれでも、彼は何かを直感している。だが、それが何かは判らない以上、呼び止める根拠にはなり得ない。だから彼はそのまま銀髪の少年の背中を見送っていた。
 波留の考えをよそに、少年は店の出入り口に向かって淡々と歩みを進めてゆく。途中で丸テーブルの足元に一瞥をくれた。そこに丸くなっている猫を視界に入れる。
 来客が帰路に着こうとしていても、やはりその猫は一切動こうとはしない。少年は惰眠を貪っているであろう猫に対して右手を突き出して見せつつ、足を止める事無く自動ドアの向こうに消えて行った。
 開いたドアの隙間から海風が入り込み、潮の香りを店内に届ける。しかしそれもドアが閉まった事で、すぐに収まっていた。
 
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