そのグラスの大きさは通常サイズである。喫茶店などで出されるジュースの類もこの程度のグラスに入れられているはずだった。
 そのため、地道に飲んでいけば容量も減ってゆく。洗い物を終えた波留はその様子を見守っていた。そこで、何気ない口調で話し掛ける。
「――そう言えば、どう言った御用件だったんでしょうか?」
「え?」
 穏やかな低い声で波留から話題を振られた少年は顔を上げた。声を上げてストローを口から外す。ストローはそのままグラスの壁面に寄りかかって落ち着いた。
 少年からの視線を受け止めながらも、波留は微笑んでいた。水に濡れた両手を流しにある布巾で拭いつつも言葉を続ける。
「あなたが僕に会いに来た理由です。急ぎの用事ではなかったのですか?」
 波留が発した問いは当然だった。親しくはない相手に対し、わざわざ電理研外のプライベートな方向に出向いたのならば、それ相応の理由があるはずだった。
 そもそもこの両者は、一応は同じ電理研委託メタルダイバーである。仕事の予定が合わないにせよ、互いにはそこそこの依頼数がもたらされるのだから、1週間以内には同じ日時に電理研を訪れている可能性は高い。リラクゼーションルームやダイブルームなどのメタルダイバーのための施設で遭遇した際にでも話し掛ければいい。しかしこの少年は何故かそれを選択しなかった。
 そこにあるかもしれない、考えられる一番の理由とは、「早急にこなさなくてはならない用事」である。後日出会うまで寝かせておいては間に合わない話ならば、他者に居場所を訊いてでも会おうとするものだろう。しかし現在に至るまで交わした会話は世間話の域を外れていない。
 既に夜も更けている。交通機関はそろそろ終電を迎える時間帯であり、海洋公園付近にも人通りは絶えつつあるだろう。こうなると波留自身としても睡眠時間を削ってしまう。明日にはレジャーダイビングの予定は入っていないとは言え、他にも店舗業務としてやる事は山積みなのである。
 現状、巻き込まれている用件は早く済ませて休息を取りたかった。只でさえ酔わないまでも飲酒しているのだから。
 波留の言動は礼儀正しいものだったが、そこにはやんわりとした急かしは確実に存在している。彼自身はそれを上手い具合に覆い隠そうとはしていたが、そんな質問を投げかけた以上その隠蔽は完全ではない。
 少年もそれに気付いていた。かなり減らしたグラスの内容物を外から眺める。そして波留を見上げた。やはり淡々とした口調で話を始める。
「――この店って、ナイフ売ってないのか?」
「…ナイフ…ですか?」
 少年からの唐突な申し出に、波留は戸惑った。思わず前屈みになり問い返している。
 要領を得ない波留の態度に、少年は眉を寄せる。右手を挙げて身振りを加えつつ自らの考えの説明を試み始めた。
「あんた、リアルのダイバーでもあるんだろ?ダイバーってダイビング中にナイフ提げてるって言うし、ここはダイビングショップなんだろ?」
 その言葉に、波留は少年の考えを捉えた。彼はそのまま顎に手を当て、考え込むような仕草を見せる。
 ――どうやら彼は、知り合いのダイビングショップの伝手を頼ってダイビング用のナイフを入手したいらしい。しかしこの少年はあくまでもメタル専門のダイバーであり、リアルの海のダイビングへの造詣は深くないらしいと、波留は思い至っていた。
 確かにリアルの海を対象としたダイバーはメタルダイバーへの適性も持ち合わせているとして、兼業する者も少なくない。波留やフジワラ兄弟、そして先程ハナマチで会ったタツミや勝嶋達もその手合いである。
 しかし、それは必要充分条件ではない。どちらか一方の海にしかダイビングの経験がない者もまた少なくはなかった。人工島は周辺を海に囲まれているために、リアルの海にも馴染みがある環境である。しかしそうではない都市に住むメタルダイバーならば、リアルの海を知らないままであっても何らおかしい事ではなかった。
「人工島の法律上、該当する刃渡りのナイフの所有には免許が必要です。永住許可を持たない外国人のあなたには、その申請が面倒かもしれませんよ?」
 少年の事情を推測しつつ、波留は望まれた説明を加え始める。しかしその台詞の内容に対応し、彼の顔には苦笑が浮かんでいた。
 人工島は基本的に前科者には居住資格を与えない。犯罪の目を出来る限り摘み取るための措置である。無論、世の常として例外処置はいくらでも存在するものであり、それは厳格な人工島でも同様である。しかしその可能性を考慮してゆくときりがない。
 そして居住者の大半が日本人と日本をルーツとする者達である以上、法律も日本に公布されているものが流用されがちだ。自分達の故郷に近い社会環境を作った方が、彼らにとっては住み良いからである。犯罪抑制に直結する銃刀法も日本の法律を流用しており、そして日本の銃刀法とは世界水準でもかなり厳しいものだった。
 メタルを社会の基幹システムとなっている人工島なのだから、許可申請自体には日本のように役所に出向く必要はない。該当する担当部署のメタル領域に接続し、申請書類をメタル経由で送付すれば良かった。そのように、申請自体は煩雑ではないのだが、それと審査の厳しさとはまた別の話である。
 波留はカウンターから下がった。背面にある壁の方を向く。そこに飾られているダイビングの機材の中から、鞘に入ったナイフを取り上げていた。
 それは片手で掴んだ場合、若干長さに余りが出る柄の長さだった。刃渡りはそれ以上のものであり、実際に振り回したら充分に凶器足り得るそうな印象を与える代物である、鞘は柄部分に引っ掛けるように止められており、それを外すのには手間が掛かりそうだった。
 波留はその鞘を手で支える。柄を掴む手と合わせ、結果的に両手でナイフを持っている格好となっていた。それに少年は視線を向ける。何処か熱心な印象を抱かせるような瞳が見ていた。感嘆の声を上げる事はないが、興味津々ではあるらしい。
 彼のその態度に波留は口許を綻ばせた。しかし波留としては、どうしても指摘しておかなければならない点がある。口を開き、それを言葉にし始めた。
「それにこのナイフは、進路上に存在したり自分に絡み付いて来たりした海草や網を切ったり、或いは船体や岩場を叩いて仲間のダイバーに合図したりするためのものであって、海洋生物を相手にするような武器ではありませんよ」
 波留の静かなその言葉に、少年はきょとんとした。鞘に納まったナイフをまじまじと見つめたままではあったが、瞳の色の印象が若干変化する。
「…リアルのダイバーって、鮫とかと戦わないのか?」
 少年は意外そうな声を上げてそんな事を言う。それに波留は苦笑した。それは彼自身が予想していた台詞だったからである。
「メタルダイバーのイメージで捉えられると良く誤解されるんですが、リアルの海においてはそれは漁師の役目だと思います」
 苦笑交じりに波留はそう説明を加えていた。その説明は一般的にメタルダイバー兼リアルのダイバーが良く行う種類のものである。
 メタルダイバーとしてダイブを行っていると、海洋生物のアバターを持つプログラムに遭遇する事がしばしばある。そのうちのいくらかの割合がウィルスなりワクチンなりであり、侵入者たるメタルダイバーに対して危害を加えてくる種類だった。
 メタルとは情報の海であり、そこに存在する全てはプログラムの産物である。メタルダイバーはウィルス達からの攻撃に対しては回避するばかりではなく、対抗手段たる攻撃プログラムを持ち込む事も多かった。その攻撃プログラムもまた海の概念に合わせたアバターを介しており、一般的には銛やナイフを形取っていた。彼らはそれを振るいウィルスに攻撃を仕掛け、怯ませ、時には撃破にまで至るのである。
 そのイメージを、リアルの海のダイバーにまで持ち込んでしまう人間は、少なからず存在していた。メタルとリアルの双方の海の親和性は一般的にも知られている事ではあるが、この誤解はその弊害でもあった。
 その一方で、メタルを抜きにしても、ダイバーが鮫などと戦っているものと誤解している人間も居る。それはメタリアル・ネットワークなどと言うものが存在しない50年前の時代から抱かれている誤解だった。おそらくは彼らは、猟師とダイバーの区別をつけていない御伽噺やフィクションなどと混同しているのだろう。
 以上のような事情により、波留はその手の誤解を受けるのもまた、慣れていた。この件に関しては丁寧に説明を加え、その誤解を解きほぐすのが常である。
 
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