カウンターの向こう側では、波留がミキサー内に様々な果実を入れている。オレンジは薄皮を取り去り、レモンは果汁を搾り入れる。冷凍フルーツはきちんと処理された状態になっており、それをある程度解凍してから放り込んで行った。
 作業中の彼ではあったが、席に着いている少年が肩を揺らすまでに驚いたのを見ていた。そして少年の視線を追うと、丸テーブルと椅子の脚に紛れて猫が丸くなっているのに気付く。
 確かにあの猫の態度には驚くのも無理はないかと思い、彼は苦笑した。そこに少年の声が届く。
「――あんた、久島部長の親友なんだろ?」
 その言葉に、波留は一瞬動きを止めた。しかしそれはすぐに再開される。口許には笑みが収まったままだった。
 そして少年自身も特に波留に対して感情を向けてはおらず、淡々とした口振りだった。問うた方がそんな態度だったのだから、波留の感情も表面的に呼び起こされる事はなかったらしい。
「…まあ、世間的にはそう言う事になっているらしいですね」
 波留は口許に笑みを漂わせたまま答えていた。彼は控えめな表現を用いていたが、確かに社会からは彼自身が言った通りの扱いを受けつつあるようだった。
 10月初頭のアイランドにて一之瀬カズネにそれをにこやかに言われた時にも、彼は若干の座りの悪さを感じていた。親友の付属品としての報道ではあるが、そこで俎上にあるのが自分であるとはどうしても実感が沸かないのである。
 電理研統括部長たる久島永一朗とは、健在時点で既に「人工島の神」として崇拝対象にすらなってしまっていた人物である。そしてテロによりブレインダウン症例に陥った現在、その扱いは増していた。彼には何の落ち度もなく、その才能には全く衰えのない状況下で倒れたのである。そうなってしまえば、その存在の神格化に歯止めが掛かる事はなかった。
 そんな人物と親友と扱われたならば、自慢話にしてしまう人間も居るかもしれない。しかし波留はその手の人種ではなかった。大体、彼は親友を神だとは全く思ってもいなかったのだから。彼にとって久島とは、血の通った人間――肉体上は紛れもない全身義体だったが――以外の何者でもなかった。
 そしてこの少年も、他の人間達とは何処か違う態度だった。神の親友から自慢話めいた過去を引き出そうとするような問い方でもない。間が持たないから世間話でもしようかとでも言いたげな、淡々とした代物だった。その口調を保ったまま、少年は続ける。
「――なのに、護衛つけないのか?」
「護衛?」
 波留は少年の言葉を問い返す。それは全く考慮していない単語だった。自身には含まれない要素だと彼は認識している。
 怪訝そうな表情で黒髪の青年に自らの言葉尻を捕まえられた少年は、それでも波留を見なかった。自由な左腕を入口方面へと突き出していた。まるで猫に見せ付けるように手を広げてかざしているのだが、怠惰な猫はそのままである。
 猫と近接電通を試みたいかのようにその手を軽く動かしつつ、少年は背後のカウンターに向かって発言した。
「久島部長ってテロられてあんな事になったんじゃないか。あんたもそんな重要人物の親友なら、その手合いに狙われるんじゃないのか?」
 ――そう言う気の回し方か。波留は少年の言い分に納得した。人工島外からやってきたメタルダイバーならば、「久島部長」を神扱いするだけの基盤を持たないのかもしれない。ならばテロを行われた背景を気に掛け、その範囲を「親友」にまで拡大する事もあるのだろう。
 しかし波留が抱いたその納得とは、あくまでも理論上の事である。心情としては一切の同意も出来なかった。それをそのまま言葉にして穏やかな口調で表現する。
「僕にはそんなものは必要ありませんよ。実際、電理研も評議会も面倒臭い事はしてきませんし」
 その波留の言葉は、彼自身の主観と彼が挙げたふたつの組織による客観的な判断とを並列していた。あの7月16日の人工島を揺るがしたテロ以降、確かに電理研と評議会は自分達の長への警護を厳しくしていた。
 それまでは犯罪率の低さに頼り、人工島の支配者達すら鷹揚なまでに独りで出歩いていたものだった。しかしそれが仇となり、久島部長は襲われたのである。その前例を作ってしまった以上、「楽園」と呼ばれる人工島であってもテロへの対策は取らなくてはならなくなった。
 現在の人工島の支配者かつ人工島の象徴的人物である電理研統括部長代理蒼井ソウタと評議会書記長エリカ・パトリシア・タカナミは、護衛用の公的アンドロイドに付き従われている状態となっている。今までとは違う扱いに戸惑いつつも、彼らはそれを受け容れていた。
 蒼井ソウタとはプライベートでの付き合いもある波留は、それを間近で見る事もあった。ソウタの場合は、護衛の任に就いているアンドロイドの事情がまた違ってくる。そしてそのアンドロイドは、元々は波留に付き従っていた存在である。馴染みの相手ではあった。しかし、仮にまた自らがそのような扱いを受けるとすれば、それはやはり鬱陶しいと思ってしまう。
 波留にとっては幸運な事に、電理研も評議会も、彼を警護対象とは見なしてはいない。無論アンドロイドとはインストールプログラムによって様々な行動を取れるもので、波留の与り知らない部分で付き纏われている可能性は否定出来ない。しかし、この人工島は個人情報や人権を重んじる地域である。それが発覚した際のリスクを考えると、島を支配する公的機関がそのような事をするとは思えなかった。
 店内を見やる視線の向こうに左腕を伸ばし手をかざしていた少年だったが、一切反応がない猫に飽きたらしい。腕を折り曲げ、カウンターに戻した。結果的に波留に背中を向けた状態になっていたが、彼はその姿勢のまま背後に再び話し掛ける。
「仮にあんたに何かあったら、また大事になりそうだけどな」
 彼の言葉は、やはりあまり感慨のない声質を保ったままだった。それに波留はすぐには答えなかった。黙ったまま、中に果物を詰め込んだミキサーの蓋を締める。きちんと押し込んでおかなくては回した際に中身ごと吹き飛ぶため、彼は押さえる手に力を込めた。意識をその作業に集中している。
 やがて波留は両手をミキサーから離した。がっちりと収まっている果物を、透明な容器越しに眺めやる。その近くに置いていたまな板と、上に乗っている包丁に視線が行く。使用され少量の果汁がへばりついた刃に、彼は自らの顔が映るのを見た。不規則に付着している果汁のせいで光が屈折し、そこに映る波留の顔は歪んでいる。
 その沈黙の後に、波留は口を開いていた。
「――僕が死んだ所で、人工島は何も変わりはしませんよ。久島じゃあるまいに」
 その波留の台詞に、思わず少年は振り返る。青年が持ち出した言葉自体も確かに強い印象を受けるもので、少年自身はその可能性をぼかしたと言うのにその気遣いをまるで無駄にしてくれていた。
 しかしそれ以上に、少年が捉われた部分があった。彼は波留の言葉に、何処か鼻で笑われた印象を受けたのだ。
 声に対して自分が抱いた印象は果たして真実なのか。それを確かめたくて彼は振り返り、直に波留の顔を覗き込もうとした。そして少年は波留の顔を目の当たりにする。
 波留はカウンターキッチンの流しに対して俯き加減に立っていた。そこには右腕を曲げ、拳を作り出していた。顔の前にその拳を持ってきて、視線を落としている。相変わらずその顔から微笑みを絶やしてはいなかった。
 しかし、その口許に閃かせているものは、明らかに冷笑と判るものだった。
 波留が果たして何を嘲笑っているのかは、付き合いが殆どない他人である銀髪の少年には理解出来ない。しかし、仕事上の付き合いのみを考えてみても、そもそもそんな表情を浮かべるような人間だとは思ってもみなかった。
 少年はそんな波留の顔を凝視し、そして鼻白んだ。眉根を寄せ、西洋人として美しい範疇に入る顔を歪める。
 来客からのその視線に気付いたのか、波留は表情を緩めた。握り締めた拳をゆっくりと下ろす。
 目許が笑みを浮かべ、穏やかな表情と変化してゆく。それはいつもの彼が纏わり付かせているイメージそのものだった。
 そして波留は視線を動かす。流しの上に準備万端状態で置かれていたミキサーを見やった。彼はそれに両手を置き、ミキサー下部にあるスイッチを押す。
 ミキサーが起動する音が店内に響き渡る。容器や蓋越しにではあるが、砕かれた果実の香りが仄かに漂い始めた。その音は酷くうるさいものではないのだが、音楽も流さず静かだった店内の空気を揺らしている。だが、そんな状況であっても、床に丸く寝転がる猫はやはり動こうとはしなかった。
 
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