ドリーム・ブラザーズは、その店内に夜も更けてから店員を迎え入れていた。無人の際には暗かったが、波留が正規の手順を踏んでセキュリティを解除し入口から来店した事で室内灯が点灯する。
 その灯りを浴びつつ、波留は慣れた店内を歩いてカウンターへと向かった。その間にも彼は手でそのカウンターの席を指し示す。
 波留の後を追って入店してきた銀髪の少年は、その指示に従う。カウンターとそこにある椅子のひとつを目視した。そして店内を見回す。彼の視界には壁際に展示されたダイビングの装備類や、室内のあちこちに置かれた観葉植物の鉢が入ってきた。彼は特にそれらに興味を惹かれた様子もない。
 少年の視線は彼の顔の高さから徐々に落ちてゆく。綺麗に掃除された木目を模した床を何気なく見やっていると、向こうの丸テーブルとそれを取り巻く椅子数脚の合間に隠れるように、灰色基調のぶち猫が丸くなっているのを見た。
 それは彼にとって不意打ちめいた出会いであり、思わずぎょっとする。椅子やテーブルの脚の影がその毛皮に落ちていて、丸くなったまま全く動こうともしない。その印象から置物か起動していないペットロボットかと勘違いしそうな代物だったが、微かに腹が上下しているのだから呼吸する紛れもない生物なのだろうと彼は思い直した。
 そんな銀髪の少年を、波留はカウンターの向こうから見ている。彼は棚の付近に引っ掛けられたままになっていた青いエプロンを手に取り、自らの前に掛けて装着し始めた。そのまま、店内に向かって声を掛ける。
「――何か飲むものをお出ししますから、少しお待ち下さいね」
 和やかな青年の声に、少年は振り返る。それから少し猫に視線を落とすものの、思いを振り切った。誘われたカウンターの前に立つ。
 すると彼に対し、エプロンを着た波留は手を差し伸べる。にっこりと微笑むその表情に少年は首を傾げるが、ふと自らの右手を見た。そこにある紙パックの残骸を思い出す。そして波留が何を求めているのかにも気付き、彼はそのゴミを波留に差し出した。波留は自然にそれを受け取り、カウンターの下に位置するゴミ箱にそのまま投げ入れた。
 簡単ながらもゴミの処理を終わらせ、波留は棚に向き直る。いつも家主達や客に対するもてなしのように、そこにあるティーカップのセットに手を伸ばそうとする。
 が、そこで彼の動きが止まった。その少年が飲んでいる紙パックの内容に思いが至った。
 ――紅茶を淹れても、彼は果たして飲むのだろうか?波留はその可能性を検討し始める。勿論、コーヒーなどは論外だろうとも考える。
 彼としては、そのどちらも淹れるに当たっては、素人にしては結構な自信と持っている飲物である。しかし、ごく少数だろうが、それらがどうしても嫌いな人間だって居るだろう。それが今、目の前に居る彼なのではないだろうか?
 それを思い、波留は棚から手を下げる。色々と考えつつ、別の高さに収められている大振りのガラスコップをひとつ、手に取った。調理道具が並んでいる棚の上からは、ティーポットやケトルなどではなくミキサーを持ち上げてきた。
 キッチンの流しにはまな板と包丁を置く。そして波留は冷蔵庫を開け、そこにある食材を確認した。自分が考えていた食物がストックされている現実を目撃して安堵する。
 そんな動作を経て、彼は冷蔵庫や上段の冷凍庫から次々と物を取り出してゆく。そうやってまな板の傍にはオレンジやレモンやバナナの果実や、冷凍フルーツとしてのイチゴや林檎などが各々適当な数ずつ並んでいった。
 それらの行動は、カウンターに着いている少年からも垣間見る事は出来ている。彼はカウンターに頬杖を着き、あまり興味なさそうな瞳で波留を見ていた。
「――あんた、酔ってるんじゃないのか?料理なんかして大丈夫なのか?」
 淡々とした少年の声に、オレンジの皮を包丁で手早く剥いていた波留はその手を止めた。視線を上げ、少年の顔を見やる。
 当人にはそれ程自覚はなかったが、どうやら酒臭さは漂っていたようである。場末の飲み屋に行ったのだから、店特有の匂いがシャツや髪に染み付いてもいるのだろう。少年の指摘に、波留はそれにようやく気付かされていた。
 口許に笑みを浮かべる。視線を手元に戻し、皮剥きの作業を再開した。極力内包を傷付けないようにしつつも外皮は確実に切り取ってゆく。その微妙な作業に、酔いは感じられない。
「料理と言ってもミックスジュースを作る程度です。それにジョッキ1杯しか飲んでませんよ」
 波留は微笑んだままそう言った。少年が呈した疑問ふたつ共に答えを提示する。
 少年は相変わらず笑わない。表情に乏しい状態のまま、深く頬杖を突く。顔を傾けると、銀髪の前髪が目元に掛かってきた。それを鬱陶しげに左手の指で摘み上げつつ、言葉を継ぐ。
「義体用ビールでも酔うものなのか?」
 波留はその言葉を耳にしつつ、綺麗に切り取られたオレンジをまな板に置く。この少年もまた、自分を全身義体の人形遣いだと誤解していたと思い出していた。
「それは、使用者の義体の性能と飲んだビールが何処まで生体用を模しているかで決まるんじゃないですかね」
 結局波留の説明は、一般論に留まった。彼が述べた事は義体メーカーやビールメーカーが公式ページに掲載するような事実である。しかし彼は、自らが全身義体であるかどうかを否定も肯定もしなかった。それについては一般論に紛れ込ませ、敢えて触れずに済ませたのである。
 それは彼自身、姑息な誤魔化しだとは思わないでもない。しかし超深海から帰還した現状において、それが彼の日常となりつつあった。結局、若返りの事実など一般的に説明のしようもないのだから。
 波留が画策した通り、生身の少年はそれ以上追求しようとはしなかった。前髪を摘む手を下ろす。瞳には相変わらず興味の色は浮かばず、波留からも視線が外れてゆく。顔の向きを変え、頬杖を突く肘の角度も微妙に動かした。
 彼は入口付近に視線をやり、ガラス状の壁面が透過している外の風景を見た。夜間の闇をぼんやりと照らし出し色をつける上からのネオンサインは、店内からも確かに目立っていた。
 彼はそのまま店内に視線を落としてゆくと、例の丸テーブルと椅子数脚の合間に丸くなった猫を垣間見た。それに彼は再びぎょっとする。どうやらこの角度からも見る事が出来たらしい。しかし猫はやはり動かない。確かに今は夜とは言え、灯りがついて人間達が床を踏んで微かに揺らし靴音を伝えてきただろうに、全く反応を返さないとはどんな猫かと思ってしまう。
 
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