波留が海洋公園付近に降り立った頃には、夜も更けていた。 繁華街ではないこの区画においては、終電時間が迫ってきている。波留は終点に到着したその水上バスから静かに下りる。そこから暫く徒歩で歩く事になっていた。 常夏の人工島は、10月となっても暖かい。湿度が高くないせいか、気温の割には蒸し暑くはないのが救いではある。波留も長袖のままで街灯に照らされた歩道を歩いていた。 彼は結局ビールをジョッキで1杯やっただけだった。同席したタツミと勝嶋にはそれ以上を振る舞い、代金を残していっている。 それ以上の酒を、彼の身体は欲してはいなかった。それに「全身義体扱い」を受けている手前、義体用の食事ではない通常の飲食物を人前で摂り続けると疑惑を抱かれてしまう。彼としては生身であると知られても別に構いはしないのだが、その説明をするのはやはり面倒だと思い、自然と自衛してしまっていた。 そして普通の人間は、ジョッキ1杯のビール程度ではそうそう酔わない。更に波留は酒に強い方であり、僅かに顔を赤らめる程度で済んでいた。確実な灯りに照らされているものの、自然の暗闇があるその舗装路を歩く足取りも確かなものだった。 彼が歩く道程は、馴染みのものとなっている。4月から9月に掛けては住んでいた付近でもあった。車椅子の老人としての日々ではなかなか出歩かない時期もあったが、それもすぐに解消された。外出し、近くに広がる海沿いの風景を楽しむ事を覚えていた。 今では彼は別の場所に住んでいるが、それでもアルバイトのような立場で関わっている店舗があった。今晩もまた、彼はそこを目指している。 そもそも今日、あのハナマチでのタツミ達との待ち合わせに遅刻したのも、その店の手入れに手間取ったからである。今日明日と彼はメタルダイバーとしての仕事はオフであり、だからこそ副業の方に取り掛かっていたのだった。 歩く彼はそのうちに、視線の向こうに派手なネオンサインを見出す。店内に人間が不在であっても、店舗業務メタルの設定によってネオンは自動点灯するようになっていた。 誰もが初回訪問時にはダイビングショップだと思ってくれないその店舗が、彼の前に姿を現した。店主である兄に言わせれば「夜の海から見たら目立って綺麗なんだよ」との事であるしそれは確かな事実だろうが、こうして陸の歩道から見ると奇妙な印象を受けてしまう。 波留は極彩色のネオンサインの灯りを遠目にちらつかせつつ、店の前へと足を運んでゆく。夜も更け酒も入った身分だが、寝る前のしばしの間を店内の整理などに費やすつもりだった。そして今晩はここに泊まり、明日は終日店番を担当する予定となっていた。 店舗業務メタルには接続しないものの、自らの生脳にて波留は今後の予定をシミュレートしながら歩いてゆく。顎に右手を当て、俯き加減に考え込んで歩みを進めていた。 そんな風にして店の入口付近にまで歩みを進めた頃に、彼はふとそこに人影を見出していた。 人工島の建築物の建材としてはポピュラーであるガラス状の壁面を背後に、入口付近にしゃがみ込んでいた人間が居た。本来ならばセンサーが感知して自動ドア状態で入口が起動しそうな位置ではあるが、波留が店の戸締りをきちんとして外出したために、それは単なる壁面である。セキュリティも起動しているため、ガラス面は店内を透過していない。 その人物は、入口前の若干のなだらかな斜面に腰を下ろし、膝を抱えて小さく座り込んでいる。上からはうるさい印象の色彩を持つ看板のネオンサインの灯りが降り注ぎ、彼を照らし出していた。 人工島ではあまり見掛けない類の、髪も肌も色素が薄い少年がそこに居る。彼は黙って通りの向こうを見透かすように座っていた。そこに波留は足を止め、視線を落とす。 波留はある程度の距離を取ったまま立ち止まっていたが、座っていた少年は年上の青年の姿に気付いた。舗装路に片手を付き、立ち上がる。長時間座っていたのか、その際に少しよろめいた。しかし立ち位置を整え、歩道に下ろしていた腰をはたく。 「――やっと帰ってきたのか」 彼は波留を一瞥して、呟くようにそう言った。その言語は英語である。 「…あなたが何故ここにいらっしゃるのですか?」 応対する波留も英語を用い、簡潔にそう尋ねた。表情には笑顔を浮かべているが、それは何処となくぎこちない。居るはずのない人間をそこに見出しているのだから、彼としては当然と言えばその通りの状況だった。 波留の問いに、少年はじろりと視線を向ける。そして愛想笑いも何もなく、ぶっきらぼうに応えた。 「ここの家主に、あんたは今晩ここに泊まる予定だって訊いた」 それは微妙に答えになっていない台詞ではあるのだが、波留はある一面については納得した。無論、少年の台詞にはいくらかの微調整を必要としている。 この西洋人の容貌を持つ銀髪の少年とは、波留は初対面ではない。9月に波留がメタルダイバーとして電理研の仕事を再び委託するようになって以来、彼とは何度か仕事を共にした事があった。 そしてこの「ドリーム・ブラザーズ」の家主たるフジワラ兄弟もまた、電理研委託のメタルダイバーである。彼らもこの少年と同じ仕事を請けた事が何度かあるはずだった。実際に波留も含めたメンバーで、メタル内からの鮫型思考複合体の排除の任務をこなした事もある。 メタルダイバーとはその求められる業務量と比較して絶対的な人数が少なく、メタルの停止と再起動を経た8月中には彼らは殺人的な多忙さに見舞われていた。9月以降はそれも若干緩和されて来ているが、通常時の水準に戻ったに過ぎない。電理研のメタルダイバーリストに登録しておけば、結構な生活水準を保つだけの依頼数に困らないものだった。 そんな事情で、フジワラ兄弟は今晩は電理研でメタルダイブを行っている。その後処理も含め、泊まり込みの作業となる事は避けられなかった。 電理研はメタルダイバーをある意味酷使する企業ではあるが、その安全性には気を配っている。一線を越えないようにスケジュールには余裕を持たせているのである。兄弟を深夜に帰宅させないのもその一環だった。 そしてメタルダイバーは自らの自意識を危険に晒して仕事を行う。自らを守るのは自らであり、慎重に振る舞うものだった。電理研からの休息の勧めに従わない者は無謀な人間のみである。そしてフジワラ兄弟とは、電理研委託ダイバーの中でもトップクラスのダイバーだった。 依頼を抱えた彼らとは逆に、波留は今日も明日も仕事を請けていない。そして波留は、彼らが運営するドリーム・ブラザーズの雇われ店員としての副業も担っていた。ダイビング客のインストラクターを始めとして、受付や機材の点検や店内清掃など、全ての業務の面倒を看ていた。 その実情は波留に賃金は支払われず、その報酬の代わりに店所有のダイビングの機材や船を無料で使用させて貰っている。しかし波留にはそれで充分な報酬だった。暇な時にはそれらを用いて自らがリアルの海にダイビングに向かうのである。 彼がドリーム・ブラザーズの店員である事実は隠すような事でもない。フジワラ兄弟とこの銀髪の少年が仕事を共有した顔見知りの関係であるのだから、仕事外であっても顔を合わせたら会話を交わす程度の事はやるだろう。 その話題に、自らの店員業務が出たに過ぎない――波留はそう解釈した。そこまでは理解は出来る。 では、一体どうして彼はここで僕を待っていたのだろう。 波留が抱くその疑問は、現状では解消されていない。そしてそのジャック・シルバーと公式プロフィールでは名乗っている少年は、ガラス状の壁面を背後にしてそこに立ったままである。 しばし少年を見やっていた波留だったが、やがて一歩を踏み出した。少年の隣に立つが、彼の興味は少年ではなく壁面の方にあった。その壁面の一部に手をかざすと、その付近が淡く光を発する。 「――…立ち話も何ですから、店の中にどうぞ」 波留はその光を顔に当てつつ、横目で少年を見やった。口許に笑みを浮かべる。 少年は波留を見て、僅かに顔を顰めた。そんな彼らの間に静かな機械音が響き、次いで空気の流れが到達する。店舗の入口たる自動ドア状の壁面が起動し、外に立つ人間達を受け容れようとしていた。空調が効いたままの店内の空気が、常夏の外の空気に溶け出して交じり合う。 店員としてのパスを持つ波留が、業務メタルに接続してロックを解除し、その扉を開いていた。同時に壁面もガラスとしての性質を発揮し、薄暗い店内をぼんやりと透き通らせてくる。少年はガラスの壁面から透過される光景と、開いた扉の隙間から実際に垣間見える店内の様子とを見比べるように視線を送っていた。 その様子に、波留は微笑みを浮かべる。右手で店内を指し示しつつ、少年に話しかけた。 「と言っても、僕の店ではないのですがね…」 波留の照れたような笑いにも少年は特に感化された様子はない。笑わないままに視線の方向を店内から波留へと変えた。 そのまま彼はゆっくりと屈み込む。上体を曲げ、舗装路へと右手を伸ばしていた。足元を探ってみせる。 「――入れてくれるのはいいけど、とりあえずゴミ箱あるか?」 「…え?」 淡々とした少年の言葉に、波留は怪訝そうな声を上げていた。先程の台詞以上に唐突な台詞であるように思われたからだった。 その気持ちのままに、思わず波留は少年の手の動きを視線で追う。上に掲げられた看板のネオンサインからの灯りを頼りに、足元の暗がりを見通そうとした。 波留が凝視する間も無く、少年は上体を持ち上げる。それに従い右手が上がり、その中にあるものがぼんやりとした灯りの中に浮き上がった。 彼の手に握られているのは、普遍的に販売されている小型の長方形タイプの紙パックだった。 その口にはストローが刺さったままになっており、手にした部分から握り潰されて小さくなっている。しかしそれは今掴んだからではなく、当初から潰してあったようだった。 その状況を認め、波留は目の前の光景をしばしぽかんと見つめていた。握り潰された上に現在も持った状態であるために、紙パックの詳細は彼には良く判らない。しかし、この少年が以前自分に対して類似した紙パックを手渡した記憶からして、おそらくはそう言った飲物なのだろうと見当は付いた。 波留からの視線が自らの手に注がれている事に、少年は眉を寄せた。その手元を彼も見やる。軽く俯き、その方を向いた。 「…何か文句でもあるのか?」 少年の口からぼそりと発せられた不満げな声に、波留は慌てて片手を胸の前で横に振る。彼の言葉を否定してみせた。 「いえ、そんな訳ではありません。むしろ、ゴミをきちんと処理して下さるとは、ありがたいなと思いまして」 言い訳がましい台詞が波留の口から出てきたら、それは確かに彼自身が思っている事ではあった。つい最近人工島外からやってきた人物だと言うのに公共マナーが身に付いているとは、賞賛すべき事例だろうと彼は思ったのだ。 無論、彼が思ったのはそれだけではない。しかしそれ以上の事を口には出さなかった。只、開いた状態の自動ドアを潜り抜ける。そして店員のひとりとして扱われている人間に先導され、少年もその後に続いた。 |