ハナマチの場末の飲み屋であるこの店の利用者は、必ずしも電脳化しているとは限らない。人工島外部から出稼ぎに来ているアジア系労働者にはむしろ未電脳化者の方が多いからである。彼らの本国ではメタルやそれ以前のネットワークすらも普及していない以上、人工島に滞在するにせよその施術を受ける必要性はない。 人工島はメタルを基幹をした社会構造ではあるが、未電脳化者を排除する世界ではない。そのために彼らは多少の不便さは抱えているにせよ、それは日常生活のハンディたるものではなかった。 この飲食店での具体的な事例を指摘するならば、各テーブルやカウンターのあちこちにはラミネート加工された紙媒体のメニューが置かれている。それはおそらくは媒体は違えど人間の有史以来から行われてきている単純な手法であり、人工島においてもメタルを介さず注文出来る手法だった。 電脳化している波留にとっても、その行為は50年前のアイランドと全く変わらない。そして注文して出される酒の肴の類も、その頃同様に安価な冷凍食品由来と思われた。酒自体も安価なのだし、食事のために訪れた店でもない。それがこの飲み屋のレベルだった。 そんな枝豆や鳥の唐揚げが載った皿は、テーブルの中央に陣取っているペーパー型モニタを遠巻きにするように周辺に置かれている。各人の取り皿にはそれらが取り分けられ、大皿に残っている量は少なくなっていた。 彼らはそうやって食品を摘みつつ、たまにビールで喉を潤しつつ、モニタに表示されたデータを眺めながら話を続けている。話の流れでモニタを操作したのか、数値が変動したり画像ファイルが展開されたりとモニタ上の表示も変化してゆく。 「――と言う訳で、俺達のダイバー仲間にも訊いてみましたが、波留さんが仰るような事態に遭遇した奴は居ませんでした」 「そうですか…」 勝嶋が話の結論をそう纏めて来ると、波留は首肯しつつも顎に手を当てて考え込むような素振りを見せていた。 「波留さんの指定した海域は、一般的なダイビングスポットから若干離れていますよね?隣接はしていますけど」 「ええ」 「で、俺達がやっているのは人工島のラダーの清掃です。基本的に海岸沿いの仕事なので、やっぱり波留さんが言う海域そのものには行かないんですよ」 「それでも、海底の状況は変わってくるはずですよね?」 「そのはずですが、誰に訊いても普通だと。勿論、俺達が見ている海底もそうです」 勝嶋の説明に波留は軽い溜息をついてみせた。自らの前にあるテーブルの木目を指先で突付く。その何処か沈んだ雰囲気に、タツミが慌てた風に手を振って言う。 「…いや、波留さんが見た物を否定する訳じゃないんですよ。只、俺達が日常的に潜っている海域ではその様子を垣間見る事は出来なかったと、そう言う訳です」 言い繕うようなタツミの言動に波留は顔を上げた。にっこりと微笑んでみせる。この展開に、気にしていないと言う意思表示をした。 波留はメタルダイバーとしての仕事を、タツミと勝嶋のコンビと何度かこなしていた。そしてリアルのダイバーを兼業している彼らには仕事のついでに、自らが7月末に見た「海底」の話をしていた。 面食らう彼らに対し波留は、リアルのダイバー業の同僚達にもその話を訊いて欲しいと依頼していた。実際に人工島周辺海域に潜っている彼らの意見を訊きたかったのである。 今日、彼らと待ち合わせていたのはその結論を訊くためだった。そして今、彼らから報告を訊いたのだが、波留にとっては芳しくない結論だった。 曰く「そんな事例はない」――ピンポイントでその海域に潜った人間は居なかったのだが、周辺海域においても海底の変化は見られなかったと彼らは証言している。海底とは地続きである以上、周辺にも影響を及ぼして然るべきである。その痕跡がないのだから、控えめに表現してもその「海底」とは波留の錯覚なのではないかと、訊かれた側は思いたいものだろう。 微笑んでいた波留は真面目な表情に戻り、また別の質問を繰り出した。もうひとつの疑問点を口にする。 「――イルカの目撃例も一切ないのですか?」 「…俺達が知る限りでは」 「大体、50年前の事故以来、イルカは人工島付近から姿を消したと訊いています。そんなイルカと遭遇したなら大ニュースです。電理研やその他の企業に報告すればかなりの報奨金が貰えるでしょうから、報告しない奴はいないでしょう」 タツミの簡潔な答えを、勝嶋が引き継ぐ。その連係プレイめいた会話に、波留は頷いた。確かに彼らの論理は通っていると彼は感じている。 イルカとは海のシンボルめいた存在である。人気の高い海洋生物であり、彼らを目当てに海に潜ったり船を出したりする人も多い。世界各地には、それを観光資源と当て込む地域が存在している。 しかし人工島周辺では、あの50年前の不幸な事故以来、その存在は確認されていない。「楽園」を自称し他からもその自評を認められている人工島にとって、それは唯一と言って良い、目に見えた瑕だった。 そのイルカが目撃されたとすれば。 仮に電理研がその報告を受けたとすれば、何としてもそれを保護しようとするだろう。周辺海域を封鎖してでもやる価値のある事業となるはずだ。それは、別の企業にとっても同じ事だと思われる。そしてその報告をもたらしたダイバーには、多額の報奨金を出す事だろう――当然の論理の帰越である。 ダイバーとは利益のみを追求する存在ではない。海に魅せられてその身を海中に置く人間も多い。そんな彼らがイルカを目撃した場合、やはりそれを保護しようとするものだろう。必ずしも報奨金のためではない。 他の企業はともかくとして、人工島のハードウェア部分の運営も担っている電理研は、海洋環境にも理解が深い。ダイバー達にもある程度の信頼を得ていた。そんな電理研ならば、イルカを無碍には扱わないだろう――その信頼の元に、ダイバーは報告をもたらすはずだった。 しかし、そんな事実は一切ない。だとすれば、やはりイルカを目撃したのは波留と、最初の目撃の際に同席したフジワラ兄弟のみと言う事になる。 波留のみがイルカを垣間見たのならば、まだ錯覚として処理する事が出来る。しかしあの時点で波留は未電脳化状態であり、しかも電脳化しているフジワラ兄弟が同じ物を見ているのである。兄のアユムに至っては、波留と共に潜り「海底」へと続くなだらかな斜面を目撃していた。どれもが、波留のみの「錯覚」ではなかったのだ。 未電脳化者だったのだから、その時点でのメタルの介入は一切考慮されない。そして電脳化した他者も同じ物を目撃している。だとすれば、それは現実に存在する光景だと解釈するのが普通だろう。 しかし、その他の第三者による目撃の事例はない。今、タツミと勝嶋がそう聞き取り調査の結果を持ってきている。波留の考えとは、明らかに矛盾する状況である。 「――繰り返しますが、俺達がやっているのはラダーの清掃なんですよね。リアルの海で仕事をしているにせよ、調査潜水とかじゃないんです」 タツミの説明に、波留は相槌を打って話の先を促してゆく。50年前において潜水作業の中でも観測を主として行ってきた波留にとって、それはあまり知らない世界ではある。しかし知識としては理解していた。 人工島とはアジアの遠洋に浮かぶ島である。巨大建造物ではあるが、それは海上の浮遊物である事実には変わりはない。海底と繋がっている天然島や陸とは違い、不安定な存在なのである。 その海域に人工島を留めるために、海底にアンカーを打ち込んでいる訳ではない。海中に隠された沿岸部の各所にはラダーが設置され、その微調整によって人工島の姿勢制御を行っているのだった。 それだけに、ラダーの不具合は人工島にとって致命傷となる。タツミや勝嶋のようなダイバー達が委託している清掃作業は、人工島の運営には必要不可欠な仕事だった。無論現在の最先端技術においては、ラダー自体には新素材が採用されており、最初から異物が付着し辛いような設計になっている。 波留は彼らがそのような仕事を行っている事は知っている。そして自らが求める知識とは微妙に一致していない事も承知していた。それでも尚、同じ海に潜るものとして得るものがあるかと思い、伝手を頼って訊いてみたのである。 結果的に彼の見たものを否定する結論に至ったとしても、やはり有意義なものであったと彼は思う。欲を言うならば調査潜水を行うダイバーの話を訊いてはみたくはあるのだが、それは電理研が厳密に管理しているのだろう。 そんな黒髪の青年の思考を知ってか知らずか、タツミは話しかける。 「もしラダーの清掃やりたいなら、俺達が波留さんの口利きしてもいいんですけどね」 「そうですか」 「…でも、ちょっと」 波留も生返事だったが、言い出したタツミの側も何処か歯切れが悪い。若干の苦笑いを顔に浮かべる。 「――あーそうだよな…皆が皆、メタルダイバーと兼業してる訳じゃないからな」 「ああ。未電脳化者のダイバーも少数ながら居るもんだし。そりゃ、ラダー清掃のみでも充分喰えると言えばそうだけど」 勝嶋がタツミにそう話しかけるとタツミもそれに応える。数年来のバディ同士の会話を向こうに、波留には彼らが言わんとする事は判っていた。 人数が増えれば純粋に、清掃作業を行うダイバーの食い扶持が減るのだ。しかも波留は喰うために清掃作業に携わろうとしている訳ではない。そんな彼とパイの取り合いはしたくはないものだろう。 メタルダイバーならば、仕事内容にもよるがかなりの高額報酬が約束されている。しかしリアルの海を舞台にしたならば、ダイバーの報酬はそこまでではない。人工島での生活を営むのには充分な金額ではあるが、それは地底や海底区画の住民としての話である。 そこに金銭的に一切問題を抱えていない地上の住民たる波留が割り込んでくるのは、心情的に許せないダイバーも多いのではないだろうか。波留が高い技術を誇っているダイバーだからこそ、自分達の領域で余計な事をするなと言う心境になるのではないだろうか。 タツミと勝嶋も、そこを嫌がっているのだろう。波留の手前、それをストレートには表明出来ないが、そう言う事なのだろう――彼はそう悟っていた。 「御安心下さい。僕は皆さんのお仕事の邪魔はしませんよ――そこまで図々しくはないつもりです」 波留が笑みを含んだ視線のみを上げてタツミ達にそう話し掛ける。すると、彼らは曖昧な笑いでそれに応えていた。 波留は視線を落とした。モニタを見やる。そこには人工島周辺海域の地図が映し出されており、そこに様々な数値が挿入されている。その光を瞳に当てつつ、波留は思惟に落ちた。瞼を伏せると若干の酔いを感じるが、思考を邪魔する程ではない。 彼らの背後では、相変わらず作業員達が騒がしくも揉めている。様々な種類の安酒や芳香剤、そして口にするのが憚られるようなものが混ざったような飲み屋独特の臭いが店内に漂っていた。 |