店内を歩いていた際には若干浮いていた波留だったが、一旦席に着いてしまえば見事に雰囲気に馴染んでしまっている。それはこのテーブルの全員が黒髪の日本人然とした容貌の持ち主であるから、人工島島民として全く浮いていない事実が大きかった。 その3名は各々ジョッキに口を付け、ビールを口にしている。僅かな沈黙がそこにあった。その最中に、タツミに挨拶めいた声を掛けてゆく男が通り過ぎる。彼は薄汚れたツナギに身を包んでおり、仕事帰りの整備工らしかった。しかしそんな彼は同席する事もなく、カウンター席に戻ってゆく。 「――波留さんは、義体用ビールじゃなくても良かったんですか?多分この店にもありましたよ」 立ち去ってゆく整備工に注意を惹かれ、波留が視線を向けていると、陽気に勝嶋が話し掛けてきていた。 「…ええ。1杯なら構わないと思います」 波留は彼の方を向き、はにかみ笑ってそう応えていた。軽くジョッキに口をつけると、冷たい液体が口の中で泡を弾いてくる。その泡立ちと共に、心地良い苦味が彼の口に広がった。 波留真理は、自らが全身義体と誤解されたまま扱われる事には慣れてきていた。そしてそれを訂正しようともしないのが常である。 彼はあの超深海ダイブ以前は、リアルにおいては老人だった。そしてその時点で既に電理研委託の有能なメタルダイバーとして、同僚ダイバーや一部職員、彼の仕事振りをデータとして閲覧している様々な依頼人となり得る人々の間で名が知れつつあった。 そして肉体が経た時を遡り精神年齢に同期した現在でも、彼は電理研からメタルダイバーとしての仕事を委託している。そしてその仕事はメタルダイバーの統括めいたものが増えており、それだけに以前にも増して彼の存在が知れ渡りつつあった。更には「久島部長の親友」としてその名を報道される事もあり、一般的に著名と表現しても遜色なくなっている。 波留は超深海ダイブから生還した直後、一旦未電脳化状態に陥っていた。その際は電理研から身を引き、一般人として生活を営んでいる。そして再電脳化して再び電理研委託メタルダイバーとして復帰するまでに、1ヶ月以上を要した。 その沈黙の期間を、彼の容貌の変化の理由付けとしている人々が大半だった。報道や噂のみで波留を知る者を始めとして、このタツミや勝嶋のように以前に老人であった波留と共に仕事をしたダイバー達も、その8月中に自らの若い姿を模した全身義体に乗り換えたものだと判断したのである。 それは波留自身が吹聴している偽りではない。しかし、彼が特に訂正しようとも思っていないのもまた事実だった。 何せ超深海から生還したら、肉体が若返っていたのである。この事実を第三者に対し、一体どう伝え、説明しろと言うのか。 帰還直後に彼に接した馴染みの人々でさえ、その殆どがその事実に直面した時には当惑を隠さなかったのである。結果的に彼が知る限りのその全員にこの事実を信用して貰ったとは言え、それ以上の人々には無闇矢鱈に説明を繰り返したくはなかった。波留にとって、それは面倒臭い事この上ない。 2061年現在、義体施術は進歩を遂げ一般化した技術となっている。しかしそれは技術が普及しているに過ぎない。全身義体ともなると金銭面においてかなりの高額となり、それを選択出来る環境にある人々も選ばれてくる。更には義体を操る適性も脳には存在し、それに欠けた人々は諦めざるを得なかった。 そして全身義体とは言え万能ではなく、どんなパッチプログラムを適用した所で補えない感覚は存在した。良く取り上げられる欠点としては、指先の器用さの喪失である。全身の操作においてもある程度のリハビリが必要であり、個人差はあれども数週間単位の労力を必要とするものだった。 しかしそれらをクリアし自らとして受け容れたなれば、生身を脳核のみとして自らの姿をどのようなものにも変化させる事が確かに可能なのである。それが現在の普遍的な事象だった。 それに対し、生体を用いての若返りは未だ未知数の技術である。万が一の事態に対して自らのクローンを維持する富裕層は存在するが、それはあくまでも臓器や四肢の部品取りとしてのものである。生かされるべきは自らの肉体であり、クローン側ではない。義体に乗せ換えるような生体間の脳移植は、技術的にも倫理的にも阻まれているのが現状だった。 そして脳内の記憶データなどのメカニズムが解明された事が電脳化社会の一端を担ってはいるが、その解明は未だ完全なものではない。クローンの脳に記憶を転写する事で結果的に肉体を若返らせる手法も理論上では考えられてはいるが、これもまた生体間脳移植と同様の理由で不可能な施術だった。 前時代から受け継がれている手段として、整形手術を用いて外科的に肉体を若返ったように見せかける方法もある。しかしそれは顔などの目立つ箇所に限定して行われるものであり、身体全体に成すのは現実的ではないし、施術を段階的に行う以上どうしてもアンバランスになってしまう。遺伝子治療のノウハウ流用も同様だった。 つまり「生身の肉体が若返っている」波留の現状は、一般的な常識として受け容れ難いものなのである。これは現実に彼の肉体に起こってしまっている事なのだが、その一般常識を覆してまで説明すると言うのは、当人にとってはその労力に似合う行為だとは思えなかった。大体の近しい人々には既に理解を得ているのである。彼はこれ以上、その範囲を広げようとも思わなかった。 「――でも、御自分の全身義体を準備していたとは凄いですね」 勝嶋がしみじみとした風に言う。一般流通の義体でも結構な価格となるのに、カスタマイズ品ともなれば個人的に造形師に依頼する事となる。そうなると単純な材料費のみでは収まらなくなり、労力も増す。依頼主にはその分の更なる資金力が必要とされるのである。 そして、自らの若かりし頃の容貌を再現するとなると、依頼主はその精密さを求め始めるものである。それを突き詰めてゆくと、経費の桁はいくつか増す事にもなりかねなかった。 それだけの財力を、一介のメタルダイバーが所有しているとは凄い話である。勝嶋はそれを指摘している事になる。 「…親切心からなんでしょうが、準備してくれた友人が居ましてねえ…――」 そう応える波留は、何処か遠くを見ていた。その視線の色は親しげと言うよりは鬱陶しいやら呆れているやら、様々な要素を複雑に取り混ぜていた。それを汲み取り、勝嶋はそれ以上の話題の発展を持ち出さなかった。 その波留の言葉には、またしても嘘はなかった。確かに現状では勘違いされつつも生身を維持したまま若返っているのだが、彼は自らの現在の若い容貌を模した全身義体を所有しているのだから。厳密にはその所有権は譲渡されてはいないのだが、それを倉庫に収めたまま黙殺する事を現在の法的な所有者に追認されている。 会話が途切れる。彼らの背後では喧嘩が勃発し、怒鳴り合う声が聴こえてきていた。しかしその喧嘩を収めようとする人間は誰一人として存在しない。それが単なる殴り合いであり物的損害に発展しないのならば、店員すら見過ごしている。この店ではこれが日常茶飯事であるらしい。 「――…波留さんみたいな方には、こんな店は合わないでしょうに」 背後をちらりと振り返りつつ、タツミは波留にそう話し掛けてきた。その声の調子は何処となく申し訳なさそうな代物である。 彼とバディの勝嶋はこの店の常連であり、この喧騒には慣れている。彼らはリアルの海のダイバーのみを職としていた頃から、この店で1日を締めくくるものだった。同様に、ここで1日の疲れを癒す薄汚れた作業員達とも顔馴染みとなっていた。 そんな自分達と、この一見して清潔な青年めいている波留は、同じ立ち位置には居ないだろう。彼はそう思ってしまう。身につけているものからしてまず綺麗な状態を保っている。そして身分こそ同じ電理研から仕事を委託するメタルダイバーなのだが、波留は実質的に電理研メタルダイバーを統括する立場を担っていた。こんな場末の飲み屋に来るような人間ではないような気がするのである。 「そんな事はありませんよ?」 波留はふたりに向き直り、笑顔でそう言った。ジョッキに口をつけ、軽く口に含んでから続ける。 「昔のアイランドも似たようなものでしたから」 そんな波留の言葉に、向かいに座るダイバー達は掴み所を得なかったらしい。首を傾げ、バディである互いを見やっていた。 「…昔、ですか?」 先に波留の方に向き直ったのはタツミだった。彼は怪訝そうに波留の口から発せられたその単語を繰り返してみせる。 彼らが知るアイランドとは、人工島島民にとってのリゾートである。自然溢れる地であり、とてもこのハナマチと同じ要素を持ち得ているとは思えない。 そんな彼に対し、波留はあくまでも穏やかに続けていた。昔を懐かしむような口調がそこにある。 「ええ。人工島建設の頃にはアイランドに建築作業員の滞在施設の区画がありましてね。僕は電理研所属の技術者でしたが、たまにその界隈に食事をしに行ったものです」 その話題に、現在を生きる若きダイバー達は目の前に座っている黒髪の青年の実年齢を思い知った。 波留が指したのは50年前の人工島建設時の日常である。そしてそれは2061年現在においては、資料館に収められているような歴史の一部だった。その歴史の断片が、波留の口からさらりと出てくる。まるで昨日の事のように鮮明に語られても、彼らにはそれを共有する事は出来なかった。 「――まあ、それはそうとして」 波留は液体がまだまだ満たされているジョッキをテーブルの上に置く。重い物体が静かに置かれた音を木製のテーブルが吸収した。そして彼は伏し目がちにテーブルを見やった。 「お互い酔いが回らないうちに、お話を伺いましょうか」 彼はそう言いつつ腰に右手を当てた。ジーンズのポケットに手を突っ込み、そこからペーパー型モニタを取り出す。 向かいのふたりが頷くのを視界の隅に認めながらも、波留は巻き取られた手頃な大きさのモニタを薄汚れたテーブルの中央に広げてゆく。紙製のようなそのモニタは広げられると、まるでテーブルに貼り付いたかのように、巻き跡もなければ折り目もない1枚の厚手の紙のような状態となっていた。さり気なくはあるが、これもまた2061年の技術の賜物である。 波留は広げたそのモニタに向かい、右手をかざす。するとモニタと右手の間の空間がぼんやりと発光した。近接電通によりモニタを操作した事になる。 それにより、紙のように白かった表面がモニタ画面として起動を開始する。徐々に明るくなる画面には、何らかのデータが羅列されて行った。 |