人工島にて日が暮れる頃には、様々な飲食店が混雑してくるものである。それはどのような都市においても見られる光景ではあるが、そこには人工島特有の事情も加味されている。
 アジアの南洋に建造された人工の孤島との立地条件では、人口5万人と言う比較的小規模な都市であってもその食料を賄う事は難しい。抱える人口に耕地面積が比例しないからである。よって地底や海底区画に建設された栽培プラントで野菜を、四方を海に囲まれた立地条件を生かしての生簀で魚介類を人工的に調達している。それでも肉類は輸入に頼る他ない。
 そして肉以外の食物も人工島での栽培と養殖だけではなく、冷凍や乾燥保存と言った形式で海外から輸入されている。その方がまだ安価に入手出来るからである。
 以上のように、「天然物」は人工島の食卓には高価な食材であり、一般家庭の多くはそこに拘らない。だからこそ飲食店の中には「天然物」を売りにする店もそこそこ存在し、島民もそれを求めるのである。
 商業区画などの繁華街同様に、ハナマチと通称される区画に点在する飲食店もこの時間帯には混雑して来ている。この区画においては飲食店の意味も質も、一般の商業区画とは多少違ってくる。ここは風俗街の色彩が濃い区画であるために、飲食店もそれに付随したものとなるのだ。
 その客はあくまで安価な酒と食事を嗜み、多くがそのままメタルやリアルの様々な風俗へと繰り出してゆく。客層も場所に拠るが、大半が安賃金の仕事に就いている労働者達だった。彼らはそうやって仕事を終えての一日の疲れを癒すのである。
 ハナマチの入り組んだ路地裏の奥に存在するその飲食店は、御多分に漏れず労働者達がたむろしていた。カウンター席もテーブル席もほぼ埋まっており、店内はざわついている。そこで交わされる言語は日本語や英語のみではなく、外国人労働者が少なからず入店しそれが受け容れられている事を示唆していた。
 健康志向が強いはずの人工島だが、この店内には煙草の煙が充満し、白い帯を漂わせている。煙たくも強い匂いが空気を満たし、強い芳香剤の香りが店内のあちこちから発せられている。花の香りを模しているその香りに紛れ、様々な匂いが微かに感じられた。そしてそう言う店は、このハナマチではごく一般的なものであった。
 そんな飲食店の狭い入口を、長い黒髪をなびかせた青年が潜り抜けていた。
 空色の長袖シャツと黒のジーンズにスニーカーと言う軽装に、長髪を後ろにひとつに纏め上げた一見して日本人然としたその青年は、入ってきた途端に歳若い店員に呼び止められる。そこに他意はなく、席の案内などの業務を行おうとしているのだろう。
 青年はその店員と少々会話を交わした後、頷き合う。店員は納得した様子でその客を見送り、客は店内へと足を進めて行った。カウンター席の後ろを通り抜け、奥に存在するテーブル席の並びを目指してゆく。
 洗いざらしの清潔そうなシャツとジーンズ姿の青年に気付き、胡散臭げな視線を送る客も数名は存在している。彼は特別に着飾ってもいないし気取った服装でもない。しかし、どう見てもこの店の客層に当て嵌まらないからである。薄汚れてもいなければ疲れた印象も持っていないのだ。その場違いな存在を見咎める者がいる。
 が、ここがハナマチと言う場所である以上、そのような姿で商売をしている人間も存在するものだろう。「清潔感溢れる好青年」を演じる店員に何かを求める客もいるのだ――結局皆、そう言う方向で納得してゆくものだった。
 そんな印象を与える青年が雑多で猥雑な狭い店を奥に進んでゆくと、奥のテーブル席のひとつに手が挙がる。人込みに紛れてしまいそうになるが、大きく腕を伸ばして手を振って見せていた。
 歩いてきている人物の方もそれを認め、笑顔を浮かべる。足を速め自らを呼ぶ席に向かい、辿り着いていた。
「――タツミさん、勝嶋さん。遅れて申し訳ありませんでした」
「いえ、波留さんはお忙しい方だと判っていますから。とりあえず1杯始めてました」
 申し訳なさそうな表情を浮かべ軽く会釈をする長髪の男に、席に着いたままの勝嶋と言う名の男の方が笑顔で応えていた。隣に居るタツミと言う男の方は若干緊張の面持ちで、波留の会釈に合わせて自らも頭を下げる。
 良く言えば年代物、悪く言えばがらくためいた木製のテーブルと椅子で構成された席がそこにある。その席には、ふたりの男が隣り合わせに既に着いており、テーブルの上にはジョッキがそれぞれに置かれていた。
 そのジョッキには黄金色の液体が注がれていたが、その容量は互いに既に半ばを切っている。テーブルの木目にはジョッキの底から同心円状に水分が広がって来ており、その飲物が席にもたらされてからそれなりの時間が経過している事を窺わせていた。
 波留真理は彼らの向かいの椅子を引き、席に着く。がたがたと安定の悪い椅子が床の木目に引っ掛かりを覚えるが、彼はそこに腰を下ろした。多少音を立てた事になるが、店内のざわめきはそれを掻き消すに余りある。
 席に着く際にテーブルに対して前屈みになり、波留は鼻腔に麦の香りを感じた。思わず笑みが零れる。それは彼にとってはとても懐かしいものだった。
「――それでは僕も同じ物を頂く事にしましょうか」
 波留は腰を下ろした椅子を落ち着け、テーブルに肘を着いた。その上を見渡した末に向かいのふたりを見てから、にこやかに告げる。
「一緒に皆さんももう1杯いかがですか?」
「そうですね」
「ではその1杯は僕が奢りましょう。遅れたお詫びを兼ねて」
 慣れた雰囲気で応対するのは勝嶋の方である。波留の申し出に素直に頷いているが、タツミの方はそんな相棒に対して何やら絡んでいる。しかし波留は向かい側の人々を意に介さず、笑って店員を呼び止めていた。
 両手に食器やジョッキ類を満載していた年若い男性店員が呼び止められ、ぶっきらぼうに波留に応対する。波留はその彼に自らのテーブルのジョッキを示し、指を3本立てて見せた。同じ席からビールの銘柄を指定する勝島の陽気な声が飛んでくる。それらに店員は頷き、残っているジョッキは後で下げる旨を告げて立ち去って行った。
 店員が伝票などを記してみせないのはこの時代の人工島ならではの光景である。この島では両手が塞がっていても自らの電脳やメタルにはアクセス出来る。店員は店の運営メタルに接続し、このテーブルの伝票データを選択して注文を追加する。そうする事で自動的に厨房側にもオーダーが回り、料理人達がそれに応じて彼らの仕事を開始すると言う寸法だった。
 かくしてテーブルの3名をそれ程待たせるまでもなく、他の店員がビールを満たしたジョッキを3つ持ってくる。それまでには先着していたふたりは、慌てて残りのビールを飲み干していた。
 店の運営メタルは店員全員にアクセス権限があり、それぞれが仕事をこなすようになっていた。それが人工島の一般的な飲食店の運営方法である。
 やって来た店員はテーブルに新たなジョッキを置き、代わりに空となったジョッキふたつを引き上げる。追加オーダーの有無を訊いたが、とりあえずそれはまた後でと言う話になったために店員は立ち去って行った。
 自らの前に置かれた黄金色に輝くジョッキを、波留は持ち上げた。顔の前に掲げて目を細める。
「エビスですか。日本のレーベルとは懐かしい」
「本社は日本にあっても、こんな店で出すようなものはアジアのこの辺で製造されてると思いますよ。実際に安いですし」
 既にジョッキ1杯を空けているせいか、若干顔を赤くした勝嶋がそう説明していた。顔とは裏腹に口調はしっかりとしたもので、酔いを感じさせない。その陽気な態度は確かに酔っ払いを思わせるものではあるが、これは彼の素であると付き合いが然程ない波留にも判っていた。
 食料品をかなりの割合で輸入に頼っている人工島は、嗜好品である酒類に関しても同様の扱いである。酒類は保存が利くものも多いために、他の食品と比較しても様々な地域から輸入されている。人工島の豊かさは世界随一であるため、輸入される酒類も様々なランクのものとなっていた。
 日本製の様々な品物は2061年現在であっても大抵が高級品である。特に人工島島民には日本人や日本をルーツとする人間が多いためか、事あるごとに日本製を求めるものだった。その需要が更に取引レートを引き上げる。結果、世界的には豊かな生活水準を誇る島民達であっても、金銭的にも絶対数においても日本製の品物はなかなか入手出来ない状況が続いていた。
 そう言う島民を満足させるものとして、日本製の各種レプリカが存在する。正式な認可を受けていない海賊版の品物も数多く存在するが、安価な品物を提供するために日本本国ではなく人工島近辺の諸国に存在する工場から直送する手法もメジャーとなっていた。このエビスビールもその手のものと言う事になる。
「それはそれで別に構いませんよ。僕も酒の味に堪能と言う訳でもありませんし、楽しく飲めたらいいんです」
「そりゃそうですね」
 朗らかな波留の台詞に勝嶋は笑ってそう答え、ジョッキを前に差し出した。波留もそれに応じ、遅れてタツミも同様の仕草を取る。席に着いた3名は軽くジョッキを突き合わせていた。かちりとした澄んだガラスの音がテーブルに響き渡るが、それはすぐに店の喧騒に解けて行った。
 
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