観客の沈黙は、早いうちにホールを支配していた。
 その頃には正面を見たカズネは微笑む。どうやら彼の視線は、最前列の席を見やっているようだった。
「――私は、この日に、この場で演奏出来る事を、とても嬉しく思います」
 カズネがマイクに向かって述べたのは、それだけだった。
 はっきりとした口調でその台詞を放った後に、傍に控えている秘書型アンドロイドに目配せする。
 彼女は波留やソウタにホロンと固有名称として呼ばれる存在であり、カズネともアイランドにて素晴らしいコンビネーションを行った仲でもある。しかしその事を知る人間は、このホールに集ったたくさんの人間の中でも片手で数えられるメンバーしか居なかった。
 ともかくそんなアンドロイドが手早くカズネの前のマイクスタンドを片付ける。物音を立てる事無く確実な作業で彼女は役目を果たし、舞台の下へと降りて控えていた。
 壇上の舞台の上には、カズネひとりとなる。そこに在るのは彼と、そのバイオリン一式のみだった。彼はそれを感じ取り、瞼を伏せた。バイオリンを構え、弓を弦に軽く当てる。
 しかしすぐに弾き始める事はない。薄く瞼を上げ、最前列を見やった。そこにある空席を視界に入れる。
 ――永一朗さん。
 心の中で、彼は呟いていた。
 ――私が望めば、きっとあなたは何処にでも来てくれるのだと思います。私はそう信じています。
 どうか――信じさせて下さい。
 弓がまるで振り下ろされるように動き、打ち振るわれる。
 そして、演奏は始まる。



 この日は、2061年10月7日だった。
 
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