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その演奏会は、電理研全体を巻き込んだイベントとして設定されてはいる。 しかし電理研とは広範にして巨大な企業であり、全ての人員が参加出来るイベントなど存在し得ないものだった。そのために平常運営状態で残業に勤しんでいる部署も少なからず存在していた。 とは言え、その部屋は現在において、電理研のほぼ全てから隔絶された空間だった。立ち入る事が出来る人間はごく僅かと限られており、室内に篭り切っている人物は一切外に出てこない。 彼はいつもの通り、車椅子に収まった状態でデスクに着いていた。 そのデスクは巨大なモノリス状の黒色の板であり、それ自体が電脳端末だった。彼はこれを用いて彼の任務を果たす。そして今、彼の左手はそのデスクの上に置かれていた。力ない左手が掌をモノリスに接触させている。 沈黙している彼は、自らの電脳を展開させていた。そこには音源データが保存されている。 彼はそれを展開する。すると、彼の聴覚にバイオリンの音色が響き渡って来ていた。 彼はAIとしての存在であり、人格形成プログラムなどをインストールされていないために感情は乏しい。そしてそのバイオリンの演奏には素晴らしい技巧が用いられ、豊かな表現力が含められていた。彼にはその前者は確実に理解出来るが、後者はその人格プログラム上理解出来るのかは謎である。 しかし、ともかく彼はその音源を聴きつつ瞼を伏せていた。人間で言うならば「音楽に聞き入っている」と表現されるような行動に出る。 瞼を伏せている事で視界は遮断され、彼に装備されている感覚は聴覚のみとなっている。そこに意識を研ぎ澄ませ、沈黙を続けていた。 不意に、彼の左手が微かに動いた。モノリスに触れているその指先が、僅かに光を発しているようにも見えた。しかしそれは、天井から降り注ぐ照明の照り返しに過ぎないのかもしれない。それ程までに光量は微々たるものだった。 彼は相変わらず瞼を伏せている。しかし、その口が僅かに開いた。まるで呼吸するかのように、微かに喘ぐ。しかし、脳核はAIでありその身体は全身義体である彼には呼吸の必要など全くないはずだった。 電脳に響く旋律の中、彼は自らのAIの中にまるで水と泡が沸き上がるような錯覚を覚えていた。そしてそこに生まれた微細なバブルが、電脳に染み入ってゆく。 彼はうっすらと目を開く。自らの内部で、何かがごとりと組み合わさるような感覚がした。 |