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それは、10月6日の午前中の話である。 アイランドの電脳隔離病棟に滞在しているその老女の元を、夏の介助実習にて出会った人工島中学校所属の少女が訪れていた。彼女はその少女の事を気に入っていた。短期の介助実習の間のみの付き合いかと残念に思って居たが、10月に入って別件で再会した事を喜んでいた。 その少女が再び訪れてきて、部屋に居た孫娘と明るく挨拶を交わす。その上で、彼女の車椅子を押すのである。 「――まあ、今のあなたがこんな事をしてくれるなんて…実習じゃないんでしょう?」 少女の手によって、彼女は廊下へと導かれて行く。車椅子の装備のおかげもあるが、少女の作業も手際が良い。しっかりとしつつも滑らかな動きで彼女にストレスを与える事もなく、車椅子は進んで行っていた。 「はい、残念ながら」 少女はいつもながらの明るい口調を保っていたが、表情には台詞通りの印象が現れていた。その上で少女は話を向けてくる。 「昨日、話聴いてませんでしたか?」 「あら…何だったかしら」 少女にそう言われてみると、彼女としても昨日のうちに病棟の職員に何か伝言を告げられていたような気もする。しかし、彼女にはその詳細の覚えがなかった。彼女はアイランド在住の身である以上、記憶媒体として電脳を頼りにする訳にもいかない。だからメモなどを残しておくべきなのだろうが、生憎とその備えもなかった。 答えを導き出せない老女の態度に、少女はにっこりと笑った。上から軽く身体を折り曲げ、老女の顔に近付ける。笑いかけつつも、伝えられているべき内容を口にした。 「今日、この前の事件の後に体調崩した人達を呼んで、改めてコンサートをやり直すんですよ」 「…あら。でも、私…大丈夫かしら」 その言葉を訊くに至った老女は、不安そうな表情を浮かべて口許を押さえた。戸惑いがちに言う。 何せ先日、彼女はその演奏を聴いた後に眩暈を覚えたのである。もしまた同じ演奏を聴かされて、その後の結果もまた再現されてしまったなら――彼女にはそれが不安でならなかった。 そんな老女に対し、女子中学生は力強く頷いていた。態度をもって雄弁に言い聞かせるかのように顔を大きく揺らす。その後に、やはり自信たっぷりな口調でこう告げてきた。 「大丈夫ですよ、きっと。今回は上手くやります」 やけに言い切る少女の態度に、老女は軽く口を開けていた。ぽかんとする。が、そのうちに口許に笑みが戻ってきた。何やらいい気分に陥る。 「あなたが言うなら大丈夫って気がするわ。不思議なものね」 「その意気です!お婆さん」 少女はそう言い車椅子を押す片手を離す。その腕を肘で曲げて力こぶを作る動作をして見せた。それに老女も笑いを誘われた。本当にこの子は、とても気持ちの良い態度を見せてくれると思う。 ・ ・ ・ 病棟の屋内部分は実際に移動してみると、それ程広さを感じない。だから老女は蒼井ミナモに車椅子を押され、大した時間を掛けずに目的地の部屋へと辿り着いていた。 その部屋に、彼女は見覚えがあった。多目的ホールとして使用される大き目の部屋であり、先日のコンサートが行われた場所でもあった。同じ施設内とは言え、全てを再現するつもりなのかと彼女は思う。――やはり体調を崩すのではないか。そんな気がしてきて、掌に冷たい汗が伝う気がした。 「――お婆さん。前に行きますね」 そこに、背後から明るい声が届く。車椅子はゆっくりと押されてゆき、室内へと導かれる。その部屋には既に観客らしき人々が揃っていた。 そこにいるのは10数人と言う印象で、以前のコンサートとは明らかに観客数は減っている。それだけに、この彼らは自分の仲間なのだと彼女は認識する。あのコンサートで体調を崩した人々なのだろうと。 しかし壇上に立っている人員は、あの時とは違う。そこに居たのは長い黒髪を後ろに纏めた青年だった。彼はこの施設の制服を着てもおらず、何処の馬の骨とも知れない人物だと、来訪者達には思えた。 その青年は朗らかな笑顔を浮かべている。姿は胡散臭さ全開ではあるが醸し出す雰囲気は穏やかで優しげだと思わせた。悪い印象は与えない。 そして壇上の中央に立っていたのは、バイオリンを持った人物である。しかし今回は、あの初老の音楽家ではなかった。 そこには女性が美しい姿勢で立っていた。その様相はこの場に集った人々の目を惹く。しかしその注目は、彼女の美しさから来るものではない。 彼女はこのアイランドではあまり見掛けない制服を纏っていた。そしてそれは電理研所属の秘書型アンドロイド用のものだと理解出来る人々が殆どだった。電理研とは人工島とその恩恵に預かる近辺に住む人々の生活に密着した組織であり、そこに所属するアンドロイドは直に出会う機会がなかなかない人々であっても映像媒体などで見た事があるものだった。 その彼女は長い黒髪はひとつに纏め上げ、色のついた眼鏡を掛けている。耳元には大き目の丸いイヤリングを装着していた。制服と相まって、服装と合わせたその姿は、彼女が完全に電理研所属の秘書型アンドロイドであると記号的に明らかにしていた。 しかし彼女の手の中には、バイオリンが収まっている。秘書としての穏やかな微笑みを浮かべたまま、両手でバイオリンを優しく抱えている。 「――そろそろ、皆さんいらっしゃったようですね」 ミナモが車椅子の老女を前列に導いた頃、壇上に立っている青年が穏やかに口を開いていた。同時にポケットから身分証明書入りのパスを出し、開いて観客に向かって提示する。 「既にお会いした方もいらっしゃるでしょうが、僕は電理研から派遣された調査員です。今回の件について調査するよう言われているのですが…まあ、それもありますが、皆さんには今度こそコンサートを楽しんで頂きたいなと思いまして」 電理研の人間とは言え人間相手の調査員だからか、やけに人好きのする笑顔を浮かべて彼は話を進めてゆく。用件が済んだパスをポケットにしまい込み、そして隣に立つ女性型アンドロイドを指し示した。 「彼女は電理研所属のアンドロイドです。今日は彼女に、先日のプログラムをやり直して貰います」 紹介らしき台詞を青年に寄越されたアンドロイドは、やはり微笑んだ。その瞼を伏せ、バイオリンを抱えたまま観客達に向かって一礼する。 「御存知でしょうが、アンドロイドとはインストールするプログラムによって様々な技術を身に付ける事が出来ます。彼女にはバイオリン演奏のマスタープログラムを与えておりますから、その演奏技巧は一流の演奏家と同等のものであるはずです」 ここで青年は言葉を切った。僅かに真顔になり、ちらりとアンドロイドの横顔を見やる。そして、笑みを取り戻す。再び口を開き、付け加えた。 「…まあ、アンドロイドはアンドロイドですから、どうしても人間とは違うと思うのですが。しかしこれが我々に出来る最善策です。今回の一件で、皆様にクラシック音楽を嫌いになって頂きたくもないのです。その辺りを御理解頂けると幸いです」 それだけ言い終わり、彼は観客に対して頭を下げた。するとまばらな拍手が返って来る。少しは乗り気になった人も居るらしく、自発的に拍手を行ってくれていた。それを感じ、彼は一礼しつつも口許を綻ばせる。 礼を終えた彼は壇上を去り、脇に控える。後に残した公的アンドロイドを見上げた、目配せを交わすと、アンドロイドは目を細めて頷いてみせる。 そして女性は観客達に改めて優雅に一礼する。その、まるで人間の演奏家のような態度に、観客達からも自然に拍手が送られていた。どうやらこの時点からも、既にプログラムは発動しているらしい。 顔を上げ、ゆっくりとバイオリンを構える。その仕草にも観客達は誘導されるように、拍手を止めていた。弦に弓が当てられ、彼女は僅かに上体を揺らす。拍を計るようなその行動の直後、演奏は始められていた。 |