波留がその結論を述べた後、誰も言葉を発しなかった。人間達は席に着いたままで黙り込み、その傍らに立つホロンもマスターの命令を待つばかりだった。
 そんな沈黙を破ったのは、語り手を続ける波留である。自らの結論を理解して貰っていると把握した上で、更に話を進めてゆく。
「僕やミナモさんのように、普段から地球律を感じ取っている人間には、あなたのその演奏を聴いても一切問題なかった。そして、あの原初の夜にも地球律を感じ取っていない、ある意味まっさらな脳のままである、大多数の人々にも影響を及ぼす事はない。しかしあの夜、地球律を感じ取ってしまった普通の人々は、全世界に分布しているはずです」
 波留はそこで言葉を切る。確認するようにカズネを見た。
 その時、初老の音楽家は項垂れていた。黙り込んだまま俯いている。穏やかであったはずの印象は重苦しいものと変わり、眼鏡の奥にある瞳は何処か虚ろでもある。波留はそんな彼を痛々しく感じ、眉を寄せた。
「――…私は、つまり…」
 やがて、カズネの口許が動く。掠れたような声がして、そう言い掛けたまま言葉が途切れた。その先にあるべき台詞を継ぐ事無く、口を半開きにしたまま沈黙している。
「ええ」
 波留は静かに頷いていた。彼にはカズネが何を言おうとしているのか、悟る事が出来ていた。だから、それを彼の口で代弁しようとする。意識して感情を込めない口調を用いて、それを明らかにした。
「少なくとも、完全純正律でのクワジ・プレストの演奏は、今後行わない方がいいでしょう。聴衆によっては今回と同じ事象を引き起こす可能性がありますし、事前に調査する訳にもいかないでしょうから」
「――あの!」
 そこで割り込んできた声があった。今まで会話を交わしてきた落ち着いた男性の声ではなく、高い少女のそれだった。声と同時にテーブルに手を着く音が響く。拍子に椅子を引いた音もした。
 ミナモは初めてこの席上にて、この会話への参加を試みてきた。彼女が事前に波留に訊いていた「今回の一件についての結論とその流れ」は今までに語られた内容である。それは彼女は知っていたために、この席上で敢えて質問する事でもなかった。その結論自体がこの演奏者にとってあまり好ましいものとは思えなかったのが、彼女に口を挟むのを躊躇わさせた一因でもある。
 ともかくミナモが知っている話の内容はここまでである。だから、ここからは彼女が事前に言おうと思っていた事を口にしようとしていた。
「一之瀬さん。だからと言って、あの曲を弾いちゃいけないって訳じゃないと思います。――えーと、何だっけ…」
 そこでミナモの台詞は途切れる。顎に人差し指を当て上目遣いになって考え込んでいた。前々から考えていた論旨だと言うのに、そこで用いるべき固有名詞はすっかり忘れてしまっていた。それをしまったと思いつつも、懸命に思い出そうとしている。
 そこに、テーブルの傍に立っていたホロンが微笑んで助け舟を出してきた。
「中全音律やウェル・テンペラメントなどですね。ミナモさん」
「そう、それ!」
 ホロンの言葉にミナモは顔を勢い良く上げた。思わずホロンに対して人差し指を突き付ける。
 確かそれらには何やら小難しい説明が付属していたはずだったが、ミナモはそれに対して無視を決め込んだ。そのまま説明を語ってしまいそうだったホロンを牽制するように、先に自らの言葉を継ぐ。アンドロイドに割り込ませる隙を与えない。
「純正律とは別に、美しい音律を弾きこなすための形式があるんでしょ?それを使えば…――」
 そこに、椅子と床がぶつかり合う音がした。ミナモはその音に思わず怯み、台詞を中断させてしまう。
 その時、カズネは身じろぎしていた。そのために椅子が動き、床と接触していた。不協和音を醸し出す。彼はテーブルに腕を乗せ、俯いている。軋みを上げた際にティーカップは揺れたが、内容物が零れるには至っていない。
 そのすぐ傍に置かれた腕とその先の拳が、微かに震えていた。肩が軽く落ちている。隣に座るミナモには彼の顔は明らかではないが、身体全体から醸し出されるその雰囲気から、そこにある感情を類推する事は出来ていた。
「――ミナモさん。判っているんです。その方法は」
 俯いたままのカズネの口から発せられた声は、意外に落ち着き払っていた。普段のように初老の穏やかさとまではいかないが、少なくとも動揺や表面的な荒れなどは見受けられない。
「それに、純正律で弾かなければ必ずしも美しい和音が生まれないと言う訳でもない。ビブラートのように、そこに歪みがあるからこそ美しい響きもある。それらは音楽理論で確立されています」
 ミナモにしてみても、カズネの落ち着きは意外な印象をもって迎えていた。そこで音楽理論を持ち出されても彼女には難しい話であるように思ってしまったが、その理論でそれを肯定されているのならば望ましい状態ではある。
 だから彼女も胸を撫で下ろす思いだった。溜息混じりに笑顔を浮かべる。
「良かった。なら…」
 しかしカズネはまたしてもミナモの台詞を遮った。何かを言い掛けた少女に構う事無く、自らの言葉を発する。最早彼女の事を相手にするつもりはないのかもしれない、そう思わせるような態度だった。
 テーブルの上に置かれている彼の右手の拳が強く握り締められる。冷静であろうとしている口調が僅かに揺れ始めていたが、それでも何とか踏み止まっていた。
「でも――私のあの演奏は、永一朗さんを追い求めて身に付けた技巧なのです。あのひとには10代でそれが出来ていました。当時から私もそうなりたいと思い、必死に鍛錬を重ね、そして得た技巧なのです」
 明確な人名を挙げたからだろうか。そこで、堪えてきたものが遂に決壊したらしい。カズネは大きな動きで顔を上げた。それに合わせ、少年時代から一貫してそれなりに長く伸ばされている前髪がふわりと揺れた。
 額や眼鏡のレンズに前髪が被さるのを全く気にせず、彼は波留を見据える。胸に右手を当て、前のめりになって身体ごと波留の方を向いた。
 その様子にも波留は動じる事はない。カズネの視線と動作とを静かに受け容れていた。そんな黒髪の青年に対し、初老の音楽家は必死な口調と表情とで訴え掛けてきた。
「――あなたは、それを私に捨てろと言うのですか。永一朗さんがバイオリンを捨て去って以降も私と永一朗さんとを繋いでくれていた――私が勝手にそう信じてきた、唯一の技巧を」
 波留は無言だった。冷静な視線をカズネに送っている。感情を露わにしているカズネに対し、波留は一切の感情を見せてこない。平静そのものだった。
 その相反する視線が、テーブルの上で交錯する。沈黙が場を支配した。肩で息をする勢いのカズネと冷徹とも表現出来る態度の波留とを、ミナモは見比べていた。しかしふたりの間に口を挟もうとは思えない。その空気を破る気分になれなかった。
 ミナモは5月の事件で、一之瀬カズネと言う世界的バイオリニストが、如何に兄弟子だった久島永一朗の事を慕い続けていたのかを良く知っていた。だからこそあの時、バイオリンを返却するしないでよせばいいのに好き好んで兄弟弟子の間で揉まれてしまったのではないか。
 ――…一之瀬さんは、久島さんにバイオリンを聴いて欲しいと言っていた。その願いはいつか叶うと私は励ました。でも、結果的に…――彼女の中に、今そんな想いが現れてきている。
 久島さんに聴いて貰えないばかりか、聴いて貰うはずだった曲まで捨てなきゃいけないのは、あんまりだ。
 別の音律で演奏したにせよ、一之瀬さんにとってはそれは「別の曲」なのだ。久島さんは完全純正律であの曲を弾いていて、そして一之瀬さんはそんな久島さんに憧れ、久島さんの演奏を目指したのだから――。
「――…判っているのです。私は絶対にそうしなければならないと」
 悲嘆にも似たミナモの考えは、そのカズネの静かな言葉に中断される。彼は一時の激昂から解放され、再び落ち着きを取り戻したらしい。しかしその態度は沈み込むものに捉われたとも表現出来るものだった。
 カズネは再びテーブルに対して俯いてみせる。長く伸びた白髪交じりの前髪が、彼の顔に垂れた。
「波留さん…あなたの説明では、どうしてもそう言う結論になってしまいますからね。あなたに当たっても仕方のない事です」
 自嘲気味に彼は微笑む。溜息混じりに台詞を継ぐ。
「今の世の中にとって、私のあの演奏は、バロックだったのですね…」
 呟くようなカズネのその台詞に、ミナモはきょとんとした。また、彼女が知らない言葉が出てきた。音楽用語だろうかと思う。
 そんな彼らを、波留は静かに見守っていた。しかし、不意に眉間に指を当てる。彼はそこに刻まれた皺を、指の腹で撫でて感じ取っていた。
 そこで彼は口を開く。掌の影を顔に落としつつ、相対しているカズネや隣に座るミナモに申し出た。
「――…大変申し上げ辛いのですが、問題はまだあるのですよ」
「え?」
 声を上げて反応したのは、ミナモだった。その先に何かあるのか、それは彼女にも初耳だったからである。
 波留は右手を顔から離した。その掌に視線を落とし、次いでその掌の先に見えるミナモの顔を見やる。視界の隅に居るカズネが顔を上げて自分を見ているのを、波留は理解していた。その上で語り出す。
「今後、一之瀬さんが別の音律でクワジ・プレストを弾いて頂けば、もうこれ以上の影響は出てこないと思うんです。しかし、今回既に純正律での演奏を聴いて発症した方々は…」
 そこで彼は言い淀む。彼はあくまでも感情を表さない口調で語っていたが、唐突に口を噤んでいた。軽い溜息をつく。
「…どういう事?波留さん」
 口を挟むのは、やはりミナモの方だった。しかし彼女にも、波留の態度からしてあまり好ましくない話題になりそうだと言う事は推測出来た。しかし、これ以上、更にどんな悪い話題が出てくるのだろう。それに戦々恐々とする。
 波留はそんな少女の顔をちらりと見た。そこに浮かぶ彼女の表情から、自分は一体どんな態度を見せているのだろうと思う。それを自覚しつつ、しかしこの話は続けなければならなかった。
「…人の脳とは厄介なもので、刷り込みによる影響はピンポイントでなされるものではありません。もっと拡大解釈されて、過剰に反応してしまう可能性も否定出来ないのです。つまり、今回の被害者の方々は中全音律、或いは一之瀬さん以外の演奏者による音律の整合性を全く考えていない演奏…――それどころか最悪の場合、クラシック音楽そのものに同じ症状を引き起こしてしまう恐れがあると考えます」
「――そんな!」
 ミナモは悲痛な声を上げていた。波留が言った説明は信じ難いものである。まさか、そんな事にまで発展するとは思ってもみなかった。それでは、あの孫娘に言った「お婆さんはこれからは大丈夫だから!」ではなくなってしまう。
 少女は焦ったように隣に座るカズネに視線を送る。その席に着いている初老の音楽家は、明らかにショックを受けたような顔をしていた。半ばまで顔を上げておきながら、その姿勢のまま凍りついている。
 それを見やったミナモは、次には反対方向の隣に身体を向けた。勢い良く波留に手を伸ばし、彼の右腕を取った。そのまま縋る。ぐいと引っ張った。
「一之瀬さんが、無理してこれから演奏スタイル変えても――今がもう既に駄目なんじゃ、何にもならないよ!」
 腕を取られた波留は、驚いた表情を浮かべてミナモを見る。必死な表情で少女は彼を見ていた。それを受け止めつつ彼は考え込む。そしてふとホロンを見やる。
 その女性型アンドロイドは相も変わらずテーブルの傍に立っていた。微笑を浮かべ、秘書らしい完璧な立ち位置を保っている。現在の彼女の服装は、人間同様の私服を纏うように指示を受けたままのものである。
 そんな彼女を波留は見つめつつも、考え込んでいた。思考を巡らせ、何か手段はないものかとその垣間見えた糸口を掴もうとする。
 ミナモはその彼をじっと見つめていた。この人なら何とかしてくれるはずだ。――そんな言葉が大きな瞳に浮かんでいる。
「――…成功する確率はそれ程高くないような気もしますが…試してみる価値はありますか」
 やがて、彼はそんな事を呟いていた。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]