|
一之瀬カズネが滞在しているコテージを蒼井ミナモが訪れたのは、丁度正午を迎えた頃だった。 いつもながら元気一杯の少女が玄関先に立っているのを、初老の音楽家は微笑んで出迎えていた。彼は時間を無為に過ごすばかりであり、その少女が昼食がてらに話し相手となってくれるのならば嬉しい事だと思ったのだ。 しかし、ミナモは突然彼の腕を取る。切羽詰まったように彼の腕を引き「すぐに私達のコテージに来て下さい」と言い出したのだ。 カズネは何が何だか判らないが、彼の世話役を担っているはずの公的アンドロイドに阻止される事もなく、コテージの外へと連れ出されてゆく。隣のコテージへの道程は本当に隣接しているので短く、少女に引っ張られて行ったのは10数歩だった。彼は老いてきたとは言え未だに足取りはまともであり、元気な女子中学生のいきなりの行動にも付き合う事が出来ていた。 「…ミナモさん。一体どうしたと言うのですか。波留さんは?」 その道程にて、戸惑いを隠せずに彼はミナモにそう尋ねていた。彼としては、どうして拉致同然にこのように導かれなければならないのか、その辺りは訊いておきたいものだった。 そんなカズネを、ミナモは引っ張りつつも振り返って見つめる。勢い込んで言葉を発した。 「判ったんです!」 「…え?」 「どうして体調崩しちゃう人が出たのか、その答えは多分、そうなんです!」 ミナモは心にあるままに、言葉を口にしていた。カズネに対する説明にはあまりなっていない。言われた側としてはその意味する所をどうにか汲み取る他なかった。 しかし、どうやら今回波留達が調査を行っていた、そしてカズネが原因と疑われていたあの案件について、一定の解決を見出したようだと彼は悟った。 そうなると、当事者たるカズネとしても、その内容を訊きたいと望む。ミナモに導かれる足取りが、自らのものとなってゆく。早足の少女に自分の意思で付いてゆく。 そうやってミナモはカズネの腕を取り、自らが滞在するコテージの1階部分を突き進む。奥に向かって進み、突き当たりの部屋を訪れていた。 そこには簡素な丸テーブルと椅子が持ち込まれており、既に長い黒髪の青年が席に着いていた。 彼の背後には間仕切りが置かれていて、その向こうを隠している。しかし床にはケーブル類が這い回っていて間仕切りの向こうにもそれらが続いているために、初めてこの部屋を訪れたカズネにもどうやらそこにはメタルに接続するための機材が置かれているのだろうと推測する事が出来ていた。 「――御足労下さいましてありがとうございます。一之瀬カズネさん」 室内に入ってきたカズネとミナモを視界に入れ、波留は席を立った。ゆっくりと頭を下げ、一礼する。そして手で空いている席を指し示した。 促されるようにカズネは席に着く。ミナモも彼らの間の席に座っていた。 ふたりが席に着くのを見てから波留も腰を下ろす。その頃にはホロンが3人分の紅茶をトレイに載せて運んできていた。秘書プログラムが指示する通りの礼儀作法で、彼女は人間達に紅茶を出す。 カズネはホロンの手が自らの前にティーカップのセットを置くのを見ていた。そのカップからは芳醇と表現して良い香りが漂って来ていて、彼の顔まで届いてくる。赤い水面は深みがある色で、一目見て美味しい紅茶だろうとは思った。 しかし、カズネの心境はそれを楽しんでいる場合ではなかった。紅茶を一瞥しただけで、彼は隣の波留を見やる。 「それで、波留さん」 「ええ…」 波留はソーサーを持ち上げカップに口をつけていたが、カズネの声に頷いた。カップを口許から外し、一式をテーブルの上に戻す。 「まずは、御覧頂きたいものがあります」 黒髪の青年はそう言い、カップから離した右手で部屋の壁を指し示した。そこには薄型モニタが掲げられており、ケーブル類が繋がっている。 そして波留が右手を一閃させると、その画面が点灯した。アイランドではメタルへの接続は有線のみであるはずだが、壁掛け端末に対してのこの距離は近接接触電通の範囲内であるらしい。 ともかくその画面上には、2種類の波形グラフが表示されていた。一方の線は赤く、もう一方は青い。そうやって色分けされている。ある一定のアニメーションを行っているそれらは、人間の目で視認するだけでも同じ動きをしているように見えていた。 カズネはその画面を食い入るように見つめていたが、彼が見ただけではそう言った印象しか窺い知る事は出来ない。それ以上を理解するためには、もっと情報が欲しかった。だから彼はそれを、波留に簡潔に尋ねる。 「――何ですか?これは」 「青線の波形は、昨日演奏頂いたあなたの音源データの一部をグラフ化したものです」 「僕の?」 「もっと正確に言うならば、あなたが演奏してくれたプログラムの最後の曲…完全純正律で演奏されたクワジ・プレストの音律の波形です」 波留の口からもたらされたのは、淡々とした確実な説明だった。これは昨日、カズネから得た音源データを利用してのグラフ化である。 しかしカズネにとっては未だに情報が足りない。片方のグラフの概念のみを説明されただけでは理解するには至らないのだ。そこを彼は指摘する。 「…この赤いグラフは?青の波形である僕の演奏と同じように見えますが…」 「この赤線の波形は…海洋観測データです」 赤線グラフを説明するに当たって、波留は青線グラフとは異なり僅かに言い淀んでいた。そのために彼は少々の間を空けた後に単純化した内容を口にしていたが、訊いているカズネとしてもそれはとても意外な内容だった。 何故、自分の演奏とそんなものが比較されなければならないのだろう。そんな思いを抱きつつ、カズネは更に単純化した単語を用いて繰り返し、問う。 「…海…ですか?」 「そうです」 怪訝そうな声を上げるカズネに、波留はゆっくりと首肯した。その表情は真摯なものとなっており、初老の音楽家を正面から見据えていた。そして説明が続いてゆく。 「膨大な海洋観測データの中でごく稀に観測される、海の深層から発せられる不思議な律動…僕達は、それを地球律と呼んでいました」 波留が用いた「僕達」と言う言葉には、様々な感情が込められている。しかしそれが果たして何なのか、彼はそれを具体的に表現するのを避けていた。 だからカズネも波留の言葉を普通に流している。「僕達」とは、単純に電理研を指しているのだろうと認識した。何せ波留は電理研から寄越された調査員であり、メタルダイバーなのである。事情を知らない殆どの人間ならば、そう捉えて当然であった。 そのため、カズネは波留が用いたその単語を、今までと同様に口の中で繰り返していた。それを理解したいがために。 「…地球律」 呟くようなカズネの繰り返しを耳にし、波留はやはり頷いた。相手の納得を確認してから話を続けてゆく。彼はそのような素振りを積み重ねているようだった。 そして波留は、視線を壁掛けモニタへと寄越す。顔ごとモニタの方を向き、向かい合うカズネにもその動きを示唆した。 その思惑通りに、カズネも思わず波留同様に改めてモニタを見やる。そしてモニタ上では相変わらずふたつの波形が同様の動きを示していた。そこに、波留の言葉が投げ掛けられる。 「つまり、あなたが演奏したその完全純正律でのクワジ・プレストは、地球律と同じ律動を生み出しているのです」 |