ミナモが電脳隔離病棟に到着した頃は、病棟では朝食の時間帯を迎えていた。
 昼食や夕食同様にその時間帯には余裕があるが、起床時間とも被っているために殆どの患者が食事を摂りに食堂へと出向いている。患者には介助士や家族が付き従い、廊下を行く。彼女にとっては有り触れた光景がそこに広がっていた。
 そうなると、ここでも自分は邪魔な存在かもしれない。あの馴染みの老女が食事を終え自由時間になった頃に、改めて病室を訪れようかと彼女は思った。
 考えを纏めつつも、ミナモは賑やかな廊下を独りで歩いてゆく。今の時期は実習生は滞在していないらしく、本職の介助士が全てに携わっている。顔馴染みの人は居ないだろうかとも思うが、引き留めようとするのもやはり邪魔になるだろう。
 廊下を抜けてゆくと、屋外へと通じる道となる。施設は海沿いに存在し、通路は桟橋へと繋がっていた。四方を海に囲まれた海上の道に到達すると潮の香りが濃くなる。海へと吹き抜ける風も強い。それも彼女にとっては馴染みの風景であり、肌で感じるものだった。
 五感でそれらを感じていると、自然に足取りも軽くなる。桟橋の突き当たりはちょっとした広場状になっていて、4月のそこでの出会いを彼女は思い出す。あの日は雨も降ったが、今朝はそんな事もなさそうだった。空には雲ひとつなく晴れ上がっている。
 朝の空気は冷たいが、そこに陽の香りが含まれつつある。南国の太陽の熱気が空気に浸透してゆき、気温を上げてゆくのを肌で感じてゆく。風が吹くと海の波が飛沫を上げ、水の粒が巻き上げられるのをその目で見た。
 そのうちに、桟橋は終着点へと導かれて行く。水面が陽光で煌き、彼女の視界の先が揺らめいていた。ベンチやリクライニングチェアが置かれているスペースがそこにある。
 不意に、強い風が吹き抜けてゆく。ミナモは思わず目許を押さえた。いつものように結び整えた髪が大きく揺らぎ、その手に当たる。そして彼女は細めた目でその先を見た。
 その桟橋の向こう側には、幼い子供が立っていた。海の方を向いて立ち、大きく風を受けている。ミナモはその子が、昨日症状区画で出会ったあの孫娘であると気付いた。
 ミナモは、やはり独りでそこに立っている孫娘に向かい、足取りを速めていた。木製の桟橋に靴音が響く。吹き抜ける風の中を歩いてゆき、そのうちに少女の元に辿り着いていた。
「――おはよう」
 少女の隣に立ち、ミナモは朝の挨拶で呼び掛けつつ膝に手を当てて屈み込んでいた。覗き込むように視線を合わせようとする。
「…あ、昨日のおねえちゃん」
 自らに影を落としてきた存在に気付き、娘は不思議そうな表情でミナモを見上げてきた。しかしすぐにその相手が昨日出会った相手であると気付いたらしく、幼い顔に笑顔が浮かぶ。
「昨日も海、見てたよね。海、好きなの?」
「うん!」
 ミナモの問いに、娘は満面の笑みを浮かべて大きく頷いていた。
「おねえちゃんも?」
「うーん…そうだね」
 真っ直ぐな瞳で少女に問われ、ミナモは苦笑を浮かべた。一応頷きつつも、頬を指で掻く。好悪で訊かれたなら、やはり好きと言うカテゴリに入れるだろう。
「でも、ちょっと違うかな」
 ミナモが発した言葉に少女は小首を傾げた。彼女にとっては背の高い「おねえさん」を懸命に見上げつつも、その頭上に疑問符を発している。
 それを正面から受け止めているミナモは、どこか照れ臭く思えてくる。はにかみ笑い、両手を所在無げに膝の前で組んでいた。何となく、少女を見ているのが恥ずかしくなり、視線を上に向ける。
「前から好きと言えばそうだけど…私の傍に居てくれる人が、凄く海が好きなんだ。だから私も海に興味が出てきたのかな」
「ふーん…」
 少女の声は要領を得ない。かと言って、それ以上追求もして来なかった。ミナモはそれに救われた心境になる。いくら訳も判っていない少女相手とは言え、これ以上この辺の話題を突っ込まれては、何だか自分が居たたまれない――そんな事を思っていた。
「昨日はきちんと帰れたんだね」
「うん。大丈夫って言ったでしょ?」
 胸を張って得意そうに言ってくる少女の態度に、ミナモは微笑を浮かべる。確かにこの幼さで独りで行動出来るのは自慢してもいいような気もするが、その態度にはやはり何処となく背伸びしたようなおかしさを感じさせる。
「道順、覚えてるんだ。凄いね」
 だから、ミナモも感心したような口調になってしまう。
 目立った建築物があまり存在していないこのアイランドだから、主要施設への道程も単純ではある。しかし視点が低く様々な障害が待ち受けていそうな子供だと言うのにきちんと行動出来るとは、それ程までにこのアイランドの生活に慣れてきているのだろうか。
 7月末から8月上旬に掛けて、ミナモはこの施設で介助実習に携わりあの老女を担当していた。その際にはこの孫娘とは出会っていない。あれから2ヶ月程度が経過している事になるが、彼女は一体何時からここに来ているのだろう。学ぼうとすれば吸収が早い年頃と言ってしまえば、それまでだろうか。
 「凄い」と褒められたせいか、少女はますます胸を張ってくる。得意満面と言わんばかりの表情がそこにあった。しかし、台詞の内容は何処か違う。
「うーんと、覚えてるって言うか、風さんが教えてくれるの」
「…え?」
 ミナモはその言葉にきょとんとする。唐突に出てきたその言葉が、一体何を意味するのか、掴みかねた。――彼女自身が言う「風さん」と同等なのか、それも判りかねていた。
 そんな年長者に対し、少女は相変わらず胸を反らせ、微笑みつつも自慢げに言葉を継いだ。
「風さんが吹いて、私を連れて行ってくれるんだよ」
 
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