夜も更けた頃には、波留は自らに割り当てた2階の部屋に落ち着いていた。コテージ備え付けのシャワーを浴び、先程買った服の一揃いに着替えてベッドに寝転んでいる。その上から就寝用のタオルケットなどを被る事はせず、とりあえず天井を見つめていた。
 物思いに耽っているような素振りである。しかし早いうちに眠るつもりではあり、乾かした長い髪は伸ばしたままで結んでいなかった。
 高級リゾート地のコテージではあるが、自然を大切にすると言うコンセプトがそこにはある。だから部屋の広さもそこそこだった。独りで収まっていても落ち着かない広さではない。
 外は相変わらず静かで、潮騒の音も微かに聴こえてくる。室内には木の香りが僅かに漂っていた。人工島と違いメタルに常時接続出来ない環境であるためか、感覚が研ぎ澄まされているような気さえする。
 それにしても、気持ちの良い別荘だと思う。富裕層ならば、こう言う場所に別宅を持ちたいだろうと彼も納得していた。人工島島民の殆どは、メタルへの常時接続が不可能な環境では不安を抱えるだろう。しかし、時にはこのように解放されたい事もあるかもしれない。だから、ここはリゾート地扱いになるのではないだろうか――。言ってしまえば、単なる過去の島だと言うのに。
 波留がそんな事を考えていた時だった。
 不意に、室外から微かな物音が響いてきた。それは小さな物音だったが、耳を澄ませてゆくと音階を辿っている事が判る。音域としては高い位置にあり、それがたどたどしくメロディを紡いでいた。
 波留がその音に聞き入っていると、それは昼間にカズネがバイオリンで演奏した曲にも似ていると悟る。しかし、用いているのはバイオリンではないし、彼の演奏のようにスムーズでもない。音を拾うと言う印象で途切れ途切れに発せられていた。
 耳障りではない。しかし、どこか気になるものがある。波留はそう感じ、寝転んでいたベッドから下りた。床にあったスリッパを履き、フローリングの上を歩き出す。結んでいないために顔の両脇に落ちてくる髪を鬱陶しく思ったか、彼は大きく掻き上げていた。
 彼は歩みを進め、木製の扉の前に立つ。ノブを捻り、ゆっくりと扉を開けた。
 このコテージは中央部分がホール状になっていて、2階部分へも吹き抜けている。1階から伸びた階段はその吹き抜けを取り囲むように巡っている渡り廊下に続き、波留の部屋はその一端に存在していた。彼が開いた扉の向こうには吹き抜けが存在し、それを挟んで更に向こう側に廊下と扉がある。
 そして彼が自分の部屋の扉を開き、上体を部屋の外に乗り出した時、流れていたメロディが唐突に停まっていた。それ以上奏でられる事はなく、沈黙が場を支配する。
 波留が怪訝そうな表情を浮かべていると、今度は微かな足音を耳にしていた。それは僅かではあるが、徐々に近付いてくる。そしてかちゃりと言う音がした後に、彼の視界の向こうにある扉が開いていた。そこから、褐色の髪の少女の顔が出てくる。
「――あ、波留さん」
「ミナモさん」
 吹き抜けを間に挟み、ふたりは互いの名を呼び合っていた。大きな声では呼んでいないが、静かな夜である。普通の話し声の音量で充分互いの耳に届いていた。
「もしかして、うるさかったですか?」
「いいえ」
 遠目からであっても、波留にはミナモが申し訳なさそうな表情を浮かべているのが判る。だから波留はひとまずそれを否定してみせていた。
 波留同様にミナモも髪を結んでおらず、褐色の髪を肩に垂らしていた。頭に大きなリボンが付属していないミナモには、波留は普段とは少々違う印象を受ける。
 そしてその手にはリコーダーが握られていた。中学で履修される科目には音楽があり、リコーダーはそこで使用されるポピュラーな楽器である。それは波留の中学生時代でも常識であったために、音楽に馴染みがない彼にもこの状況を理解する事が出来ていた。
 波留は、今まで耳にしていた音の正体はこれなのだと気付いていた。それをそのまま言葉にし、確認してゆく。
「ミナモさんが吹いていたんですね」
「はい」
「クワジ・プレスト?」
「はい」
 波留は昼間に教えられ記憶したその曲名をミナモに告げると、ミナモもそれに頷いていた。
「5月のコンサートの後にちょっと練習したんですが、それ以降はさぼってました。今晩久々に吹いてみましたが、やっぱり全然です」
 苦笑気味にミナモはそう説明してゆく。それに波留は相槌のように頷きつつも、更に、ふと気付いた事があった。昼下がりまでには勘違いしていた事柄に、真相を得た心境になる。
「もしかして、あなたが鞄に入れていた大荷物って」
「はい、実はこれなんです」
 波留の台詞を引き継いで肯定しつつ、ミナモは恥ずかしそうに笑っていた。リコーダーを手の中で持ち替える。俯き加減に続けていた。
「一之瀬さんに聴いて貰おうかなって。でも、これじゃあ申し訳ないですね」
 波留は何も言わず只苦笑していた。拙い演奏であってもカズネは気にする性質ではないように思われたが、演奏者のミナモがそう思うのならば止めておいた方がいいのだろう。
 ミナモはリコーダーを持つ手をあちこちに触れさせ、まるでリコーダーを弄ぶかのように扱っていた。手持ち無沙汰な末に、無意識にそのような行動に出ていたとも言える。が、そのうちに、ぽつりと言った。
「…本当は、波留さんの前で、久島さんと一緒にやりたかったな」
「久島と?」
 波留がその名を繰り返すと、向こう側に居るミナモは大きく頷いてみせた。波留をしっかりと見やる。その顔にはにかんだような笑みが浮かんだ。リコーダーを胸に引き寄せて言う。
「でも久島さん、どうしてもバイオリン弾きたくなさそうだったから、駄目だったかな」
「どうでしょうね」
 苦笑しつつも波留は明快な返答を避けていた。彼は親友が過去に音楽の道でさえも将来を嘱望されていたと言う事実を、あの5月の一件まで一切知らなかった。それは親友が語りたがらなかった過去であり、結び付けるには意外過ぎる過去であった。
 そんな自分が、音楽と親友との関わり合いについて語る事は出来ないだろうと思った。知らなかった事だと言うのに、判ったように語ってはならないと思っていた。
 ともあれ、夜も更けている。老人や病棟患者を相手にする調査なのだから、その朝は早いものだった。ならばあまり夜更かしをしてはならない。
 特に波留は明朝にはメタルダイブを行う予定である。心身共に休息を充分に取っておく必要があった。だからミナモには早目に休むようにと言い含めた上で、自室の扉を閉めていた。
 
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