|
先日は病棟での演奏会だったために、時間はそれ程長く確保していない。用意された時間は1時間弱であり、それに伴い曲目も少なかった。そして一般的に良く知られているバイオリン曲が揃えられており、曲名を知らずとも耳馴染みはあるようなものばかりだった。ボランティアコンサートとして、素人にも取っ付き易いプログラムと言えた。 そして、電理研で後日開催される安息義務の一環としてのコンサートも、同様のプログラムを予定していた。それは現状では延期状態にあり場合によっては中止も余儀無くされる可能性すら存在していたが、安全性が確認された時点ですぐに電理研に申し送りが行われる事になっている。そう言う意味でも、このプログラムの精査は絶対に必要だった。 しかし、現在この場で演奏を聴いていた青年と少女は、それをひとまず意識の外に置いていた。 最初から楽しもうとしていたミナモはともかくとして、波留はそうではなかった。ホロンに演奏音源の確保を一任しているとは言え、彼自身もその耳で何かを感じ取ろうと意識していた。 波留は音楽に対して特別な興味は持っていなかったが、全ての入力への鋭い感覚を自覚している。海から何かを感じ取ろうとする時程ではなくとも、何かを見出す事も出来るのではないか?――彼はそう思い、聴覚に意識を集中していた。 そうしていると、彼が気付いた時にはその音楽の世界に取り込まれていた。踊るような音や歌うような音、眼を閉じていても様々な音の世界が垣間見えてくる。暗闇の世界に彩りすら添えてくるような印象だった。 彼は音楽に知識がない以上、演奏中の曲のバッググラウンドも一切知らない。ここでは気軽にメタルに接続出来ないのだから、その場で調べる事も出来ない。だと言うのに、音の世界が見えてくる。 彼は、似たような感覚を海においても覚える事がある。これも、そう言うものなのかと感じていた。 伸びやかな弦の音がやがて途切れ、空気の中に解けてゆく。波留はその雰囲気を感じ取っていると、不意に隣から手を叩く音が聴こえてきた。それは徐々に速さを増し、一定速度に至ると規則正しく続いてゆく。拍手となっていた。 「――やっぱり一之瀬さんの演奏は凄いです!」 拍手の音に混ざり、高い音域の少女の声が波留の耳に届いてくる。波留はゆっくりを瞼を開ける。横目で隣の席を見やると、ミナモは嬉しそうな表情を浮かべて拍手を行っていた。 「最後の曲は、5月のコンサートでもアンコールで弾いたものでしたよね?完全純正律ってのを使ってるんですっけ?」 「はい」 ミナモの笑顔を受け止めつつ、カズネはバイオリンの構えを解いた。弓を下ろす。少女の台詞には間違いは含まれていなかったので、彼は簡潔に頷いただけである。 そしてカズネは傍の台の前に立つ。その上に置かれているバイオリンケースを開き、今まで弾いていたバイオリンと弓とをそこに丁寧に収めてゆく。彼はその作業中、ミナモ達に背中を向けたままで話を続けた。 「多少指の動きが悪くなっていますが、これを弾きこなすのはまだまだ大丈夫のようです。何せこれは永一朗さんも純正律で演奏されていた曲なのですから、私がそれを汚す訳にも行きません」 語りながら彼はケースの蓋を閉じ、施錠する。バイオリン一式を収めるためのケースは程好く大きい。その片隅に刻まれるように刺繍されている名前を、彼は目を細めて見やっていた。 しかしその様子は、背中を向けているミナモ達には見る事が出来ない。だからミナモは自然に会話を交わそうとしてゆく。 「そう言えば、これ、何て曲なんですか?」 そのミナモの質問への答えは、先のコンサートのプログラムには掲載されていたはずだった。しかしミナモはそれを記憶していない。彼女にとって、そう言った情報は必要ではない。彼女にとって、感性こそが重要なのだ。 「パガニーニの24のカプリースより、クワジ・プレストです」 カズネはミナモの質問に振り返る。微笑んでそう応えていた。 彼はクラシック畑の演奏者ではあるが、技術を極めた者にありがちな偏屈な人間ではない。素人の重ね重ねの質問に対しても気を悪くする事もなく、穏やかに返答していた。 それに対し、ミナモは小首を傾げる。どうやら本気でプログラムを読んでいなかったか或いは読んでも記憶に残していないのか、その連続した単語に覚えがないらしい。だから彼女は自らの耳で聴いたままを繰り返す。 「パパにーにの桑のプリント?」 ――その時、ホール状の室内には女子中学生の不思議言語センスが炸裂した。一瞬沈黙の帳が下りる。彼女と会話をしていたカズネは勿論、一歩引いた場所で伺っていた波留すらも思考が停止していた。 が、それを冷静に打ち破るのは、やはりアンドロイドであった。 「――ニコロ・パガニーニとは、19世紀初頭にヨーロッパで活躍した、作曲家にしてバイオリニストです」 カズネが口にした人名などを元にして、ホロンが補足説明を始める。どうやら事前に音楽系の知識をインストールされていたらしい。今回の調査には音楽の要素が含まれるのだから、アシスタント用アンドロイドの設定としては当然とも言えた。 ミナモはホロンの方を見る。彼女の説明に興味を惹かれたようだった。その少女の視線に、アンドロイドは微笑を浮かべてみせる。説明を続けて行った。 「24のカプリースとは、彼が遺した数少ない曲です」 「少ない?」 「彼は盗作や楽譜の散逸に対して非常に用心深く、オーケストラに自らの楽譜を与えるのは演奏の前日や数時間前だったそうです。更に自らの演奏パートについては、本番で初めて団員に聴かせる事もしばしばだったと。また、演奏技術を盗まれる事にも慎重で、生涯において弟子は独りしか取りませんでした。そして彼は死の直前に、自ら作曲した楽曲の楽譜の殆どを焼き捨ててしまいました」 「えー!そんな、勿体無い」 ミナモは頓狂な声を上げていた。その少女の素直な感想に、傍のカズネも苦笑気味に笑う。波留も同様だった。 第三者から見れば確かに勿体無い話なのだが、情報を後世に遺すつもりがなく自らと共に滅ばせる事を選ぶ人間は、様々な時代や色々な業界に存在するものだった。巨匠と呼ばれる人間がそれをやってしまうと、悪目立ちするだけである。 ――メタルと言う情報の海を扱う事を生業ともしている波留は、パガニーニの人となりは知らなくともそう言った一般論自体は見知っていた。自分としては決して相容れない考えだが、一部の人間には根強い考えなのだ。 人間達が感じた事など知る由もなく、ホロンの説明は続いてゆく。滑らかに、プログラムに収められた知識を吐き出して行った。 「彼は子供時代に父にバイオリンを教わり当時の巨匠ロッラに半年だけ師事した以外には、その驚異的な演奏技法をほぼ独学で身に付けたそうです。ヨーロッパ中を演奏旅行した際には"悪魔に魂を売ってバイオリンの技法を身に付けた"とまで噂される程になっており、演奏会にて聴衆は本気で十字を切り、死後には教会に埋葬を拒否されたとの逸話も遺されています」 「…それ、酷くない?」 ミナモは眉を寄せてそんな事を言う。どうやらその扱いに、過去の人物とは言え、軽く引いたらしい。 「――まあ、神への信仰が身近だった時代と地域の話ですからね」 カズネが微笑んでそう告げる。そう言う時代に遺された曲を演奏している人間だけあり、彼にはそこに横たわる偏見めいた背景にも理解はあった。共感はしないが、それを理解していないと演奏に現実味を与える事は出来ない。 朗らかに微笑んでいるカズネを見ると、ミナモの動揺も落ち着いていったらしい。腕を組み、納得したように頷く。 「そうですね。2061年の今の人工島じゃ、そんな事ないですよね」 ミナモは自身の中の常識に当てはめて考える。オーストラリアでもそのはずだ。――では、アボリジニとしての生活を守っていた人々にとっては?霊的な存在も肯定しただろう、彼らの伝統を守っていたなら、やはり悪魔とかそう言う存在も意識したのだろうか? ミナモはそんな事を考えていた。そこに、カズネの声が届く。 「――皆さん、体調はいかがですか?」 その問いに、ミナモは波留を見た。顔を見合わせる。互いに、その一件をすっかり忘れていた。それこそが本題だったはずだった。 「僕は大丈夫ですよ。むしろ、心地良かったです」 「私も。一之瀬さんのバイオリンですもん。当然です」 ふたりはカズネに対し、口々に自らの答えを述べていた。そこに嘘はない。クラシックとは心を安寧にさせるジャンルの楽曲だと一般的に言われているが、ふたりはそれは全く真実であると身に沁みている所だった。 何故、体調を崩した人々が存在するのか、そこが判らない。それについては、今回ホロンが取得したデータを精査する事により、新展開が見られるかもしれない。 時刻は正午を過ぎている。電理研から調査日数は区切られていないが、出来る限り早急に解明する案件である。そろそろ次の段階へと調査を進めるべきだと波留は判断した。 |