波留真理は土曜にソウタから今回の依頼を請けた時、実の所少しばかりその承諾を躊躇していた。
 何故ならば彼は、日曜日は一貫してドリームブラザーズでの仕事を行うようにしてきたからである。メタルダイバーと兼業しているために毎日勤める事は出来ないにせよ、客が予約を入れてくる事が多い日曜だけは絶対に出勤していた。確実に彼は日曜には出勤しているとの評判を頼りに、実際に予約を入れてくる常連客も多くなっている。
 それを、今回の依頼で反故にしてしまっていた。幸いにもフジワラ兄弟はオフであったため、店を完全に閉める事にはなっていない。彼らがレジャーダイビングの依頼を代行してくれる事だろう。
 しかし波留は今回の展開には、兄弟と客の信頼を裏切ってしまったと思っている。彼は兄弟と実際に顔を合わせて平謝りした挙句、該当する予約客にも謝罪のメールを送信していた。
 そして夜には店舗を訪れ、仕事に出る時間まで準備などの作業を行っている。無論その間には、電理研から請けた今回の案件をこなすに当たっての睡眠はしっかり取っている。
 それまでには帰宅していたアユムやユージンは、波留の義理堅さに驚いたが、やりたいようにさせていた。実際に彼の作業が日曜のダイビングへの助けとなった面もある。
 そして波留は朝日の中、中央ターミナルへと向かっていた。特に荷物を持つ事もない。電脳化している彼は、その肉体そのものが端末である。宿は依頼主たる電理研が準備しているし、着替えなども現地で調達すれば良いと思っていた。
 彼がターミナルを訪れた時間は、朝の8時頃である。それは酷く早朝と言う訳でもなく、始発のフェリーの離発着が行われた時間帯だった。そのためにターミナルには既に客が多くなっている。待ち合わせの相手を探すのは骨が折れそうだと、彼は思った。
 ――マスター。中央ターミナルにいらっしゃっていますか?
 そんな波留の元に電通が届いていた。彼を「マスター」と呼ぶ人物は、たったひとりしか存在しない。
 それを認め、彼は相手の探査を始めていた。彼女は登録上は波留に仕えるアンドロイドのままであり、そのデータの全てが彼に渡されている。現在彼女が居る座標の検索も可能だった。
 検索の結果、どうやら彼女は近くに立っているらしかった。アンドロイドらしく、待ち合わせの時間には設定された場所を訪れている。波留はターミナルを訪れ闊歩する人々の合間から、探している人物を見つけ出そうとした。





 その頃、蒼井ミナモは大急ぎで中央ターミナルへと向かっている。
 確かに寝坊はした。しかしそれはちょっと遅れただけであり、すぐに取り返せる範囲のものだった。――彼女は内心、そう言い訳している。
 しかし実際に、彼女の手の中にある携帯端末に表示された時刻は、待ち合わせの時間から数分過ぎ去っていた。その時刻を見やりつつ、到着した水上バスから飛び降りる。そして待ち合わせに指定された場所に向かって走り出した。肩に提げた大き目のトートバッグの紐を掴み、落ち着かせる。
 制服のセーラーが翻る。履いている靴はローラーシューズでもあるのだが、人間が多いターミナル内では流石にそれは起動出来ない。自らの足で走り抜ける他なかった。人々を回避しつつ、ミナモは急ぎ走る。そこで彼女は持ち得た瞬発力を半ば無駄に発揮していた。
 必死に走ってくる制服姿の少女を見て驚いた表情を浮かべている人々の隙間に、ミナモは長い黒髪を結んでいる人影を見出した。それを認めた彼女は身体を捻り、最後の人影を回避した。黒髪の人物の前に躍り出る。
「――波留さん、遅れてごめん!」
 ミナモは前のめりになってそこに到達していた。一気に足に力をかけ、立ち止まる。髪が彼女の頬をくすぐった。突然足を止めると呼吸が詰まる。肩で息をした。
「…ミナモさん。大丈夫ですか?」
 少女の耳に、半ば呆気に取られたような男性の声が届く。それは彼女が求める相手のものだった。しかし膝に手を当てて前屈みになって呼吸をしていると、なかなか顔を上げられない。
 その彼女の視界に、そっと手が差し伸べられた。大きな男性の手がそこにある。ミナモはゆっくりと視線を上に向けた。
 すると、屈み込んでいる波留と視線がかち合う。朗らかに微笑んでいる青年の顔を認めると、少女の頬に赤味が差した。照れ臭そうに彼女は再び俯く。右手で青年の掌に軽く触れつつ、上体を起こした。膝に当たる制服のスカートを左手ではたく。
 ミナモは、顔を上げて波留を見るのが、何だか恥ずかしかった。遅刻したのは失態であるし、あまりに慌てた様を見せ付けてしまったのである。――やっぱりこうなってしまうのかなあ。彼女はそんな思いに浸っていた。
「――ミナモさん。お元気そうで何よりです」
 そんな彼女の耳に届いたのは、波留とは別の声だった。柔らかで落ち着いた女性のものであり、彼女が良く知っているものでもあった。しかしその響きには、最近のものとは微妙に違っているような気がしていた。思わず顔を上げる。
 波留の隣には、黒髪の女性が立っていた。ミナモはその女性が、ホロンと呼称される秘書型アンドロイドである事を知っている。兄や父に差し入れを持っていくに際し良く出会っていたし、ホロンの記憶に残されていない時期にも少女なりに付き合いを深めていた。馴染みの存在である。
 しかし、今ここでミナモの瞳に映るホロンの様相は、最近のものとは違っていた。
 電理研所属の秘書型アンドロイドなのだから、今までホロンはその姿を取っていた。電理研の制服を纏い、髪型もサイドにふたつに纏め、団子状にしている。一般的な公的アンドロイドとしての容貌を保っていた。
 しかし、今は違う。その黒髪は波留同様に後頭部にひとつに纏めて結ばれており、掛ける眼鏡の形式も違っていた。耳元に存在したイヤリングも取り外されている。
 その彼女の服装も、電理研の制服ではなくなっていた。長袖ブラウスを肘まで捲り上げた状態で、その首元にはスカーフをネクタイのように巻いている。黒のタイトなミニスカートを穿き、薄いベージュのストッキングで脚を包み込んでいた。
 平たく表現するならば、ミナモにとってそのホロンの格好は、アンドロイドの記憶の彼方に消えた頃のものだった。少女にとっては懐かしさすら覚えさせるその格好に、ミナモは徐々にその瞳に喜びの色を浮かべる。
「ホロンさん!どうしたの?その格好」
 ミナモは立ち上がり、その勢いのままにホロンが立つ方へと歩みを進める。そんな少女をホロンは笑顔で見ていた。膝の前で両手を合わせ、秘書としての立ち姿を保っている。
「部長代理からの指示です。今回は内密の調査なので、普段の服装では調査対象ではない方にも私が電理研所属のアンドロイドと明らかになってしまってまずいとの事で」
「…あ、そうなんだ」
 ホロンの説明に、ミナモの笑顔は僅かに凍り付いていた。冷静な言葉に、喜びの印象が吹き飛ぶ。
 確かにソウタが取った措置は間違ってはいないだろう。しかしミナモとしてはそこに別の意図を感じ取りたかったし、むしろホロンが自発的に選んだ服装だと思いたかった。しかしそんな現実はなかったと言う事である。
 ミナモの表情の変化は僅かである。しかし彼女が醸し出す雰囲気からは、その変化が確実に読み取る事が出来ていた。それはホロンの隣から見やっている波留には感じ取れている。
 対して、ホロンはミナモの顔を見つめている。秘書としての立ち位置を変化させる事もなく、柔らかく微笑んだ。
「――ですが、私はこの服装も好きです。ソウタさんが指示して下さったものですから」
 ミナモはその台詞に、意外そうな顔をした。そして波留も同様だった。ミナモは向かいに立つ波留のその表情に、自分だけがその感情を抱いている訳ではないのだと知る。
 おそらくホロンは、秘書として仕える人間からの指示だから、喜んで受け容れているのだろう。そしてその指示に対して嬉しいと表明するのだろう――驚きの感情の直後に、波留は理知的にそう判断していた。アンドロイドとはそう言う存在であるはずだった。
 一方、ミナモはそうは割り切れない。ホロンの態度に、別の意図を汲み取りたかった。それは彼女が見守ってきたあの3ヶ月間、実の兄と交わしたであろう感情の推移だった。
 ホロンの全身に視線を送ると、ミナモはふとホロンの手元に気付いた。秘書としての立ち姿ではあるが、その右手は左手首に触れている。そこには銀色のブレスレットが嵌められていた。右手の指が、その表面をなぞっている。
 それは偶然の仕草かもしれないが、ミナモはそこに必然を見出していた。それに伴い、嬉しさの感情が彼女の心中に復活してゆく。以前この服装をしていた時には唯一存在していなかったそのアイテムへの扱いを見ていた。
「――マスター、ミナモさん。そろそろ乗船手続きが開始されます。内密調査のために一般運行での定期便でのアイランド入島となりますので、煩雑かもしれませんが御容赦頂きますようお願い致します」
 ホロンの声がその場の沈黙を破る。有能な秘書としての言葉だった。膝の前から手が離れ、右手でターミナルの奥を指し示す。それにミナモは我に帰った。
 
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