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妹が姿見の前で簡易ファッションショーを行っているとは、同様に自室に引っ込んだ兄には想像もついていない。 彼は彼でベッドに腰掛けていた。その傍ら、彼の手の届く位置には白い杖を立て掛けている。彼は特に着替える事もしていない。部屋の灯りもそのままの明るさを保っていた。 彼の自室は7月以前と特に変化していない。棚の上に置かれたヘルメットや、壁に貼られたサイン入りのポスターや格闘家達のフィギュアもそのままだった。 ベッドに腰掛けるソウタは俯き加減だった。そしてその手には何かが握られていた。両手に余る大きさのカプセル状のケースがそこにある。 彼はそれをふたつに開き、その中身を取り出している。右手に銀色のブレスレットを持ち、その輪を摘んでいた。その手首に通す事はせずに、弄んでいる。動かす度に、天井から降り注ぐ室内灯の光を金属製のリングが弾く。それに目をちらつかせるが、彼は静かにブレスレットを眺め続けていた。 そんな作業ともつかない行動をなしていると、ソウタの電脳に電子音が響き渡る。彼はそれに弾かれたように背筋を伸ばしていた。思わず上がった顔に掛かる前髪が揺れる。 彼の電脳に展開された電通ダイアログは、発信者の顔アバターとその登録名を表示している。彼はそれを確認し、回線を開いた。 ――部長代理。お迎えに上がりました。 そこに表れているのは、彼に仕える秘書型アンドロイドだった。落ち着いた声が彼の電脳に響く。 ――ああ。すまないな。 ソウタは彼女の電通を耳にし、受け容れていた。それは予定通りの行動であり、ホロンと呼称されるアンドロイドが今連絡してきた時刻も寸分足りともずれていない。 彼は必ずしも暇な人間ではない。しかし、出来る限り空き時間を見つけて、自宅に帰るように心掛けるようになっていた。今日もそれを実行している。 だから、食事を妹と共にした後には、再び電理研に戻る予定となっていた。着替えてもおらず、寝る準備もしていないのはそのためである。 ホロンの送迎が行われるのは、現在の彼は統括部長代理の任に就いており、人工島の重要人物となっているからである。格闘プログラムをインストールされている秘書が付き添うのは、テロ対策の一種だった。 ――俺が出て行くから、君は外で待っていてくれ。 ソウタは電通を飛ばしつつ、手の中にあるブレスレットをそっとケースの中に戻していた。カプセルの片割れに収め、パーツを組み合わせて閉じる。 ――了解致しました。 ダイアログの中のホロンの表情は、秘書として相応しいような柔らかなものだった。ソウタはそれを視界に入れつつ、右手を伸ばす。傍らに準備していた杖を掴んだ。 それで身体を支えつつ、軽く腰を浮かせる。左手にはカプセル状のケースを持ったままだった。右足が利かないために拙い歩みを進めつつ、そのケースを棚の上に置く。その手を離し、前を見た。 ――ミナモさんはお元気ですか? ――ああ…。 ソウタはホロンの電通を訊き、半ば受け流しかけた。しかし、そこに、ある変化を感じ取る。 最近、ソウタは良く帰宅するようになっている。そうなると、必然的にミナモが差し入れに電理研を訪れる事も少なくなっていた。父親である蒼井衛のためには差し入れを続けているのだが、彼は単なる電理研職員に過ぎない。統括部長代理付の秘書であるホロンを通す理由は何処にもなかった。 以上のような事情から、9月下旬以降にホロンはミナモと会う事はなかった。それでもホロンにとってはミナモは馴染みの相手であり、彼女が仕える部長代理の妹と言う事もある。そんな相手の近況を知りたいのは、自律思考型AIを搭載したアンドロイドとしては、当然だったかもしれない。 しかし、今の彼女にそれ以外の感情はないのだろうか?――ソウタはそう思ってしまっていた。現在の彼の脳裏には、4月から7月に掛けての記憶が去来している。それはホロンと共に過ごしたはずの日々であり、しかし現在のホロンからは抜け落ちた記憶だった。 ソウタは目を伏せた。俯いて足元を見た。覚束無い右足と白い杖の付け根が、そこにはある。その現実に、彼は顔を歪めていた。 ――ホロン。 ――何でしょう? 微笑みを浮かべたホロンの顔画像が、彼の電脳にちらついている。 ――明日からの案件について、君に指示したい事がある。 ソウタは静かにそう、彼の秘書に対して電通を送っていた。 |