電理研統括部長代理の任に就いている蒼井ソウタも、たまには自宅のキッチンの住民となっている。
 それは7月以前の只の電理研インターンだった彼にとっては日常だったが、それ以降においては違っていた。特に引き継ぎなどを行った訳ではないが、なし崩し的にキッチンの主の座を妹に受け渡している。そのため、キッチンに入った時に彼がまず行った事と言えば、調理道具や調味料などの配置の再確認だった。
 彼が炊飯器をセットし、杖を頼ったり椅子に座ったり寄りかかったりしつつもIH調理器の前に立った頃には、妹が帰宅してきた。時間帯としては夕方である。それは一般的に考えても特に遅い訳ではなく、事前に約束した時間よりも早かった。
 彼女は兄への挨拶もそこそこに、買い物してきた荷物などを自室に置きに行く。兄は兄で妹に向き直る事もなく、挨拶の声のみを上げて鍋で出汁を取っていた。
 そうやって出来上がった夕食は、白米と豆腐とわかめの味噌汁に、付け合わせの生野菜のサラダである。主菜は青椒肉絲――所謂、豚肉とピーマンの細切り炒めだった。
 それはミナモにとってはある種の嫌がらせかと思わせる料理の選択なのだが、彼女としても以前よりはその緑色の苦味を含む野菜を苦手としなくなっていた。言葉では兄に不満を述べつつも、白米を頼りにしながら肉と共に味のついたピーマンも口に放り込んでゆく。
「――最近、ソウタって良く帰ってくるよね。暇なの?」
「そう言う訳じゃない。だが、夏よりは落ち着いてきたな」
 ミナモの指摘にソウタは淡々と答えていた。彼女が言うように、確かに9月下旬から、彼はたまに自宅に帰宅していた。彼は7月半ばに統括部長代理の任に就いてからは一貫して電理研に泊まり込んでいたものだったが、ここに来てその態度を変化させた事になる。
 その変化を、妹は単純に空き時間が出来てきたからだと捉えているらしい。しかし兄にとっては、その空き時間をどうにか捻出するようにしていた。多忙さのレベルは多少は減少してはいるが、それでも一般論としては忙しいままである。その中でも、家族に会う機会を見つけ出そうとした。
 その心境の変化は9月半ばにある人物に諭しを受けてから生じたものなのだが、彼はそれを他者には明かしていない。妹には気楽に誤解されたままでも構わないと思っていた。
「まあ、久島さんだって波留さんに良く会いに来てたから、統括部長って偉そうに言ってもそんなもんなのかもね」
 それでも暢気そうなミナモのこの台詞には、思わずソウタの箸が止まっていた。サラダのレタスに箸を当てた状態のまま静止する。口許が歪んでいた。
「…俺と先生を一緒にするなよ」
 呟くように彼は言う。重い雰囲気を醸し出すが、隣のミナモは一向にそれを気にしない。7月以前の懐かしい心境のままに言う。
「えー、だってソウタって部長代理だけど、部長の久島さんと同じ事してるんでしょ?」
 ソウタはそれ以上は何も言わない。黙って箸をサラダから上げる。何も摘み上げる事もなかった箸を茶碗に当て、白米を口へと掻き込んでいた。
 その不機嫌そうな雰囲気を、流石にミナモは察知する。だからそれ以上は突っ込まなかった。別の話題を振る。
「お父さんがなかなか帰ってこないのが、寂しいけどね」
「…そうだな」
 ソウタは首肯した。それはそれで、兄と妹としては実感を伴った事だった。大きく事情が変わる以前から抱えている気持ちである。
「――それで、波留さんにはどんな仕事を依頼してるの?」
「ああ…――」
 箸を進めつつも、兄と妹は会話を変化させて行った。今日の本題へと入る。
 ミナモがサヤカとユキノと共にアンティーク・ガルに居た際に、ソウタから届いた電通はそう言う内容だった。しかしその依頼の詳細は未だに訊いていない。兄が帰宅して夕食を共にする以上、その場で伝え聞けばいいと思ったからである。
 兄であり統括部長代理でもあるソウタは、ぽつぽつと話してゆく。しかしそれは、電理研からの依頼を伝えると言う雰囲気ではない。あくまでも家族の食卓と言う印象だった。
「一之瀬さんがアイランド入りしてるのは、お前にも話しただろ?」
「うん」
 頷いたミナモの表情が明るくなる。その名を訊くと彼女も嬉しい気分になった。あの5月以来、その老年の人物と再会するのだ。彼とは色々と話したい事もあった。
 妹のそんな表情を目の前にしたソウタは、僅かに視線を落とした。豚肉とピーマンを箸先で摘み上げ、白米の上に乗せる。淡々とした口調を保ち、続けた。
「――実は、昨日の一之瀬さんの演奏会の後に、介助施設で体調を崩した人が何人か出たそうなんだ」
「え?」
 ミナモはきょとんとする。思わず箸が止まる。茶碗を持ったまま、ソウタを見やっていた。その視線を受け止めつつも、ソウタは話を進める。
「因果関係はまだ不明なんだが、仮に本当に一之瀬さんの演奏が原因だとすると、無自覚なテロ行為にもなり得る。そうなると、電理研での演奏会は取り止めて貰う他ない。だから、波留さんに真相究明のための調査を依頼したんだ」
 そんな話を耳にしたミナモは、相槌のように頷きつつ箸を進めていた。
 彼女は15歳の少女ではあるが、波留のメタルダイバーとしてのバディと、以前から公的に登録された人間である。そのために電理研が波留に依頼する案件には関わり合う事もあった。だから電理研の事情も少しは理解している。
 しかし、それでも良く判らない事は存在していた。だからその疑問をソウタにぶつける。
「何でメタルダイバーの波留さんなの?前のソウタみたいに、調査部の人を送り込めばいいのに」
 その問いは、至極真っ当なものだった。だからソウタとしても解答を準備済みである。それをそのまま語った。
「電脳隔離施設でのトラブルだからな。電脳障害を抱える患者さん達の話だから、メタル絡みの可能性も否定出来ない。なら、メタルダイバーを送り込む必然性もあるだろ。施設外なら有線でメタルに繋げる場所も確保されているから、場合によっては波留さんにはそこからダイブして貰う事になるだろうな」
 電理研からの正式な依頼の説明は、家族の食卓にて淡々と進んでゆく。実際にはこの依頼の説明は、それ以前には部長オフィスにてソウタは波留相手にまともに行っているはずだった。そこでの雰囲気とは、明らかに違うだろう。
「それに、事件性があるのかも判らないから、まだ大事にする訳にもいかないんだ。でもメタルが関わるかもしれない以上、電理研としても早急に調査する必要がある。だから内密な調査として、波留さんにお願いしたんだ」
「ふーん…」
 説明を訊いたミナモは、とりあえずは納得していた。味噌汁を啜る。
 おそらくはそこには、電理研における先代の支配者たる統括部長と統括部長付秘書との関係性にも似たものがあるのだろう。様々な事情から表沙汰にしたくない重要な案件を、信頼する人間に密かに依頼する。そう言う関係がミナモにも見て取れていた。
 波留さんならば、その信頼に応える事が出来るだろう。むしろソウタの方がその信頼に値するのか怪しいものだ――ミナモにはそんな思いすらある。彼女は波留と言う人物に対して、絶対的な信頼を抱いていた。
 それは納得出来た。が、彼女の中には他に疑問が存在している。それを率直に訊いた。
「――それで、何で私も?」
「俺じゃない。波留さんからの指名だ」
 ミナモからの問いに対し、ソウタは不本意だと言わんばかりの言動を見せていた。眉を寄せ、手元の茶碗と箸を下ろす。
 言われた妹は、兄のその態度も不思議に感じた。が、それよりも波留が自らを指名してきた事に対する疑問の方が大きい。怪訝そうな声で繰り返す。
「波留さんから?」
 妹の表情を受け止めると、ソウタはますます不機嫌そうな表情を浮かべてしまう。彼としては本気で厭なのだが、波留から頼まれた以上断る訳にもいかない。先の鮫退治の案件でも、作戦に参加させるダイバーの人選を波留の好きにさせた以上、今回はそうさせない理由など何処にもないから仕方ない――そんな心境が滲み出ていた。
「お前、一之瀬さんと色々あって顔馴染みだろ?それに、アイランドの介助施設にもお前が慣れてるから、色々と案内して欲しいってさ。施設内も患者さんについても、単なる入居者だった波留さんよりも介助実習生だったお前の方が詳しいだろうって…――まあ、俺としてはホロンをつけるから大丈夫ですって言ったんだが」
「――ホロンさんもアイランドに行くの?」
 ついでのように告げられたその予定に、ミナモは声を上げていた。それもまた彼女にとっては意外な展開である。
 それにソウタは無言で頷いた。やはり、彼が纏う雰囲気は、何処となく硬いままだった。それを気にする事もなく、ミナモは感じた印象を口にする。
「まるで、昔みたいだね」
「そうかもな」
 懐かしさすら含ませているミナモに、ソウタは淡々と言う。そして箸を進めていた。
「明日の朝8時には、中央ターミナルに行ってくれ。波留さん達とはそこで落ち合う事になる。…起きられないならホロンを迎えに寄越すが?」
「いいよ、もう子供扱いしないでよ」
 兄からの言葉に妹は憮然とした表情を浮かべる。そんな彼女に、ソウタは片眉を上げてみせた。どうにも信用出来ない――そんな面持ちである。彼にとっては彼女は何処まで言っても「妹」でしかない。
 その雰囲気を感じ取り、ミナモはますます憮然とした。乱暴に箸をサラダに差し込む。眉を寄せ目を伏せた。口を尖らせて言い募る。
「それより、明日は日曜だからいいとして、学校は?明日1日で終わらないかもしれないじゃない。私、毎日アイランドに通わなきゃいけないの?」
 妹からの問いにも兄は視線を上げない。当然のように静かに言葉を続けていた。
「大丈夫だ。これは電理研からの正式な依頼だ。俺の肩書きで中学校には申し送っておく。実習の一環として処理されるだろうさ」
「…なら、いいけど」
 ミナモは生返事のように頷いていた。電理研からのその扱いに、実感が沸かないようだ。
 彼女は以前から確かに波留のバディ業務を行っていたとは言え、それは波留の事務所から請けたアルバイト程度の扱いでしかない。このように彼女に直接、依頼を持ってこられた事は初めてだった。
 色々と考えを巡らせつつ、ミナモは食事を続けている。他の事に気が向いているからか、口にしているピーマンの苦味も全く気になっていない。
 
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