「…彼は誰ですか?」
 一旦足を止め、去りゆく少年の背中を眺めていたソウタは、波留にそう質問していた。ソウタにとってあの少年は初対面であり、波留にあのような歳若い知り合いが居るとは意外だった――それは、彼自身の妹を差し引いて考えての事である。
「現在電理研の仕事を委託している、人工島外出身のメタルダイバーの方です」
 ソウタからの問いに、波留は簡潔に答える。ジャックと言う名の少年は統括部長代理との面通しを行いたくないようだったので、それ以上の情報をソウタには渡さない事にした。その彼とは今後も仕事を共有する可能性がある以上、気を遣うべきだった。そうでなくとも波留の性格として、少年の意思を尊重しただろう。
「そうですか…なら、俺とあまり顔を合わせたくないのも頷けますね」
 そう答え、ソウタは納得したように頷いた。人工島の職業メタルダイバーと違い、島外出身のメタルダイバーはハッカーやクラッカーに手を染めている可能性が高い。そう言う立場の人間ならば、体制側の最たる者である電理研統括部長やその代理などとは関わりたくもないと考えるのは、当然の話でもあった。
 ソウタはその事情を図り知る事が出来ていた。何故なら彼もまた、アンダーグラウンドで行われていたストリートファイトの経験者だからである。彼は腕試しにそれを行っていたために、どっぷりと浸かり切っていた訳ではない。しかし業界は違うとは言え、ブラックに近いグレーゾーンに身を置いた経験から、類推する事は出来た。
 そんな事を考えているソウタの元に、波留が歩いてくる。未だ中に液体を収めたままの紙パックを右手に持ったままである。持つ位置や握る強さは加減しているために、刺されたストローの先から色付いた液体が漏れる事もなかった。
 波留を目の前にしたソウタはひとまず意識を現実へと戻す。彼には、波留と出会ったならば第一に訊きたい事があった。
「――波留さんは、今日はあの鮫型思考複合体の排除を行って頂いたのでしたね」
「はい」
 ソウタが何の話題を持ち出したのか、波留にはすぐ理解する事が出来ていた。
 そもそもその依頼は、統括部長代理であるソウタから波留が直接請けたものである。そしてその案件を処理するに当たって立案した計画は、メールでソウタ宛に送信していた。実行する日時まで決定していたそれに、ソウタはきちんと目を通していたのだろう。
 そして波留が緊急減圧を行うに至り、リーダーを引き継いだアユムは、おそらくは弟の手を借りつつ事後処理を行ったはずである。そうなればそのフジワラ兄弟からソウタの元に、案件処理の顛末までが報告されているはずだった。
「少しトラブルがあったと訊いていますが、メディカルチェックの結果はいかがでしたか?」
 フジワラ兄弟が提出した報告書はダイブ終了までのものであり、それ以降の事は記されていない。そして波留をチェックした医務室から部長オフィス宛にその結果を連絡する事もなかったらしい。
 だから、波留は医務室から申し渡された結果を、ソウタの前で繰り返した。心配をかけまいと微笑みを絶やさない。
「特に問題は見付かっていませんが、大事を取って今晩一杯はメタルに繋がないようにとの指示を受けています」
「――でしたら、俺がお引き止めしている場合じゃないですね。早くお帰りになってお休みにならないと」
 波留の言葉に、ソウタは気遣うような表情を浮かべていた。トラブルと言う柔らかな表現を用いていたが、ソウタは具体的にそこで何が起こったのかを知っている。そして減圧症に陥る恐れがあるようなダイブを行ったのならば、その恐れがないにせよ早急に心身を休めるべきだとの知識も持ち得ている。
 彼の目の前に立つ波留は、相変わらず朗らかな雰囲気を保っている。見るからに危険な状態には至っていない様子だった。しかし意識を危険に晒す仕事をしている以上、心身を労らなければならない。電理研幹部の一員として、そう言う気配りをするのは当然だった。更にはソウタ個人としては、波留を信頼する仲間として認識している事も大きかった。
 そのようなソウタの考えに、波留自身も追随している。ソウタも統括部長代理と言う大任に就いているのだから、暇な人間ではない。安息義務をこなすためにリラクゼーションルームを訪れているのだから、このように他愛もない会話を交わすのは理に適っているだろう。しかし、それ程長くはない安息義務の時間を越えてまで長々とやるものでもない。
 波留はソウタに対して軽く頭を下げた。会釈し、いくらかの挨拶を行う。そして彼の前から立ち去ろうとした。
「――…ああ、そうだ。波留さん」
 そこに、ソウタは何かを思い出したように、波留を呼び止めていた。その声に波留は振り返る。数歩の歩みを進めた地点で、ある程度の距離を取った位置からソウタを見やった。
「御存知かもしれませんが、安息義務の一環として電理研で近々コンサートを開催するんですよ」
 その台詞に、波留は首を傾げた。彼にとって、それは全く心当たりがない行事の予定である。
「…いえ、残念ながら存じ上げませんでしたが…」
 言いながら波留は視線を上に向けた。電理研の各所に配置されている告知板にその手の文言が記載されていたかと思い起こそうとする。生の記憶を辿らずともメタルに繋いで電理研メタルの一般区画に配置されているニュースをチェックすればすぐに判るだろうが、生憎と今の彼はその手順を避けるべきだった。
 結果的に、彼にはその事実は一切思い当たらなかった。電理研にはほぼ日参している状況だと言うのに、呆れたものだと彼は思う。電理研職員でなくとも、メタルダイバーたる彼にとっては安息義務は全くの無関係ではないと言うのにだ。
「安息義務の一環ならば、クラシックコンサートですか?」
 ともかく知らない以上、仕方がない。波留は知識を取り入れるべく、素直にソウタに質問していた。
 音楽鑑賞とは脳をリラックスさせる効果を持つものではあるが、数ある音楽のジャンルの中でもクラシックこそがその効果は最大だった。少なくとも、一般論としてはそう言う事になっている。ならば、安息義務の一環として職員を集めてのクラシックコンサートの鑑賞を、電理研公認の行事とする事がたまにあった。
「ええ。――それも、一之瀬さんがいらっしゃるんです」
 その名を挙げた時、ソウタは僅かに表情に笑みを零していた。それは、彼がクラシックに興味があると言う理由からではない。
「…一之瀬カズネさんが?」
 それに対し、波留は怪訝そうな声を上げていた。ソウタの台詞から、そのフルネームを補足する。波留がその名を知っているのは、何も彼がクラシックに造詣が深いからではない。音楽に対しては、ソウタ同様に一般人としての距離を保っている。
「彼は昨年のツアーを最後に、引退なされたのではなかったのですか?」
「プロとしての一線は退かれているのですが、ボランティアやチャリティとしての演奏は続けるとの事でしたので、電理研として演奏の依頼をお願いしたら快諾して頂けました。あのツアー以降しばし休暇を取られていて、今回の演奏が復帰後初のものとなるそうです」
「そうですか…」
 それでも彼らはそのような会話を交わしている。それだけの知識を共有していた。そこには、彼らが今年の5月に経験したある体験が横たわっている。彼らはその時にその人物の存在を認識していた。
「明日…――いや、もう今日ですね。一之瀬さんは、アイランドの電脳隔離病棟にて先行して演奏会を行う予定になっています。電理研入りして頂くのは、その後日です」
 ソウタの言い直した言葉から、既に日が替わってしまった事が示唆されている。それでもリラクゼーションルームから白衣組の姿が消える事はない。本当に電理研とは眠らない組織だった。
 それはともかくとして、波留はソウタが口にしたその施設名に目を細めた。そこは彼が今年の初頭に滞在していた施設である。それだけに、馴染みがあった。
 更にそこは、何らかの障害を抱えていたり老人であったり、そう言う患者が集う場所である。ボランティア活動にはうってつけだった。人工島本島の前に演奏を行うに相応しい事だろうと波留は思う。
 そして彼は微笑を浮かべる。彼が笑うだけの理由は、他にもあった。5月の出来事を思い起こすと、必然的にあの少女の笑顔も脳裏に思い浮かんでいた。その思いを素直に言葉に出す。
「一之瀬さんには、ミナモさんもお会いになりたいでしょうに。そんな暇があるといいですね」
 波留の言葉に、ソウタもまた笑う。その可能性についてもぬかりはないようで、笑顔のままにそれを説明していた。
「電理研の一般開放行事として、職員以外の人間も入場出来るようにする予定です。あいつにもそれは伝えてありますから、きっと来るでしょう」
「それは良かった」
 ソウタの説明を受けて、波留は安堵したかのような笑みを零していた。統括部長代理としてのその決定を適当だと思ったのと同時に、持ち出された「あいつ」と言う単語に兄としての意識が見え隠れしたからである。波留の目の前に今立っている22歳の青年は、電理研最高幹部であると共に、妹を大切に思うひとりの兄だった。
 そのような会話を経て、電理研委託メタルダイバーの実質的トップと電理研統括部長代理とは、一旦の別れを告げていた。電理研と言う組織として考えると相当な上位者同士の会談だったのだが、当事者達が醸し出す雰囲気はあくまでも単なる立ち話であり雑談だった。一方が紙パックを手にしていた事も、その雰囲気を増幅させていたかもしれない。
 リラクゼーションルームには、少なからずの職員が相変わらず安息義務や単なる休息のために訪れている。時間帯としては深夜とは言え海底区画の電理研において、その時刻はなかなか実感出来ないものだった。
 
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