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波留真理とジャック・シルバーが連れ立って訪れたリラクゼーションルームは、一番利用者が多い公園タイプのものである。 彼らは安息義務のためではなく、単に会話を交わすために訪れるのだ。となれば、普通に公園として存在するルームを利用するのが適当だった。ここならば多少の飲食物の持ち込みも可能だった。その辺りの利用規約も、地上区画に存在するような公園と同様である。 現在は、日が替わろうとしている深夜帯のはずだった。当然ながら、企業である電理研の定時はとっくの昔に過ぎ去っている。だと言うのにリラクゼーションルームには、波留達以外にも白衣組がちらほらと見受けられる。 電理研とは人工島における研究機関であり保守機関でもある。そのために企業全体が深い眠りに就く事などあり得ない。どの部署であっても、泊まり込みを含めた残業が行われる事がたまにあるものだった。現在この公園に居る白衣組は、その息抜き中なのだろう。各部署にはその数倍の人員が未だに居残っているはずだった。 それでも、日中よりは利用者は確実に少ない。勤務明けのふたりのダイバーは、難なくベンチのひとつを占領出来ていた。 そうやって腰を落ち着けた所で、ふたりで各自の紙パックにストローを刺す。その中身を吸い上げ、軽く口に含んだ。短くはない距離を歩んできたために、その甘い液体が喉を潤していった。 そして少年はストローから口を離す。波留の方を見て、口を開いた。 「――あんた、そんな姿してるけど、81歳なんだって?」 「ええ、まあ」 自らに向けられた問いに、波留もストローから口を離し、苦笑気味に頷いていた。 どうやらその辺の事はこの少年も知っていたらしい。ダイバーとしての公開データには年齢も記載されているのだから、それをチェックしていては知られていて当然だった。そしてそれは容貌とまるで一致しない情報である。疑問に思われるのもまた、当然だった。 「あんたのそれ、義体なのか?」 「…まあ、そうですね」 少年に指差され、波留は苦笑を深めた。肩を落として顔に手を当て、そんな風に首肯していた。 彼はそう答えていたが、事実とは全く違う。戸籍上は81歳であるのは確かな事実だが、その肉体は完全なる生身である。50年間眠っていたために、精神年齢も30代のままと表現して良かった。彼は7月末の超深海ダイブを経て、肉体年齢がその精神年齢まで立ち返ってしまったのだ。 水の力で若返った――彼自身はそう言う認識を持っている。それは海の深層にて、別れ際に親友に告げられた台詞からの受け売りだった。 そのようなややこしい事情を、波留はその疑問を抱く全ての人々に説明しようとは思っていない。こんな話を信じてくれる人間など、両手で数え切れる程度しか存在しないだろうからだ。老人であった頃の自分を知らない人間に対しては、その真実を話す気にはなれなかった。 だから、そんな彼らに対しては、事実を単純化した挙句に捏造を加えた説明を平然と行っている。「嘘も方便」と言う言葉を、若返った波留はとてもありがたく感じていた。 「そのジュース、義体用じゃないけど、大丈夫だったか?」 「…ええ。少量なら大丈夫ですし、味は楽しめますよ」 波留は勘違いしている少年に、その話を合わせてゆく。全身義体はその特異性のためにこの時代においても然程存在しないのだが、全く居ない訳でもない。それは、人工島での未電脳化者との遭遇率にも似ていた。居ないようでいて実は居るものであるし、その逆も言える。微妙な確率だった。 実際に、実年齢は老人のくせに壮年の全身義体を用いていた人間が近くに居た事も、彼にはその演技の助けになっていた。その人物は今はもう居ないのだが、遠くはない記憶を呼び起こし、自らに当て嵌めて考えてみていた。 この「嘘も方便」について、波留は今までは誰にも疑われた事はない。全身義体と偽った人間とはそこまで深い付き合いを保っていない事も、一因だろう。 「――あなたは、人工島外からいらっしゃっていましたよね?」 質問が途切れた事に乗じ、今度は波留から質問を行っていた。紙パックを傾けて尋ねる。 「まあ、髪の色見りゃ判るだろ」 少年は波留の問いに、前髪を一房摘んで答えた。確かにどう見てもアジア系のそれではない。染めている可能性もあるが、顔立ちからして西洋人である。 しかしこの時代ならば、他の可能性も視野に入れるべきだった。波留は自分に問われたものと同様の問いを投げ掛ける。 「それは御自分のものですか?」 「俺、全部生身だから。部分的にでも義体にするような金ないし」 ぼやくように少年はそう言い、摘み上げた前髪に溜息めいた息を吹きかけた。指先を離すと、吹きかけられた息に前髪が吹き上げられる。 「そうなると、お住まいは地底区画にある単身者用のワンルームマンションですか?」 「そうだな。狭いけど、メタルダイバー扱いの俺はまだマシなんだろうな。単なる作業員になると、マジでタコ部屋状態って訊くし。全く、何処が楽園なんだか」 愚痴めいた少年の弁に、波留は短く笑う。人工島は世界に対して「楽園」との評判を築いているが、それは自然と科学が共存している地上区画のイメージが強い。或いは、今まで人間が進出して来なかった海底区画の都市群もそれに当たるだろう。 しかし、人工島の現実はそれだけではなかった。名も無き作業員達がその繁栄の礎となっているのは、他の華やかたる都市とも同様だった。そんな彼らは、評議会が推進する人工島のイメージとは相容れない。だからなのか、彼らの現状にはなかなか触れられないものだった。それでも金銭面では喰うに困らないだけの保証がされているだけ、他の都市よりはまともな扱いだった。 波留個人は人工島に居住するようになって以来、地上区画と縁が深い。喧伝されている「楽園」を存分に満喫している事になる。 「メタルに繋げたら大抵は事足りるから、別にいいんだけどさ。色々巡ってたらメタ友も出来たし」 不満はあっても、少年なりに人工島の生活を楽しんではいるようだった。同年代の子供達と同じような事を言っていると波留は思う。その態度に波留は目を細めた。 その時、部屋の向こう側からどよめきが巻き起こった。まばらに室内に居る白衣の職員達が、一斉にその方を向く。何事かと思い、波留も釣られて視線をやった。 そこでは職員達に遠巻きにされ、電理研制服に白衣を纏った姿の黒髪の青年が、白い杖を突きつつ慎重に歩みを進めていた。彼の歩みを邪魔しないように気を遣いつつも、各人が彼に対して会釈を行う。 電理研統括部長代理である蒼井ソウタが、リラクゼーションルームを訪れてきていた。この時間帯でも彼は帰宅しておらず、安息義務をこなしに来たようである。職員達に挨拶を行われつつも、彼自身は杖を突いている事もあり、それにはなかなか答えられていない。彼よりも年上の職員達に、視線を向けて目礼するばかりだった。 その彼の姿を認め、波留は席を立った。にこやかな表情を浮かべ、声を掛ける。若き部長代理に向かい、一歩を踏み出した。 「――ソウタ君」 「…波留さん!」 聴き慣れた穏やかな声を耳にしたソウタは、その声の主の名を口にした。杖を突きつつ波留の方へと身体の向きを変える。そして波留の元へ向かっていた。彼の進路上に位置していた職員達は慌てた風に道を空ける。 その様子に、波留は自らの足でソウタの方へと向かおうとする。が、隣に座っていた少年の事を思い出した。視線を落とし、彼を見る。 ――丁度いい機会なので、統括部長代理へ面通しさせておくのもいいだろう。波留はそう思った。一介のメタルダイバーにはそんな機会はそうは来ない。これから電理研から仕事を請け続けるならば、上の人間に存在を認識して貰っておくのもひとつの良い手段だった。 しかし、少年は波留に紹介されるより前に、席を立った。つまらなそうな顔をしている。もう飲み干していたらしい、手にしていた紙パックをぐしゃりと握り潰した。 「――そう言うのは、苦手だ」 銀髪の少年は波留にそう告げ、肩を竦める。そこに立っている波留や、やって来ようとしているソウタに背中を向けた。そのままその場を立ち去ってゆく。 |