適度な温水の粒を身体に浴びると、身体を洗うだけではなく心身のリラックスにも繋がる。疲れを感じていた波留には良い刺激だった。
 つい数ヶ月前まで彼が普通に生きてきた50年前から、髪を乾かす手段は大して変化していない。ドライヤーを使用して水分を吹き飛ばし蒸発させる手法である。そして現在の彼は50年前よりも髪を伸ばしている格好になっているので、髪を完全に乾かすのには手間が掛かった。
 自宅ならば生乾きでも構わないかも知れない。100歩譲って彼が働くリアルのダイビングショップでも、そうした状態で接客する事もままある。彼の都合でダイビング直後の客を待たせる訳にはいかないからだ。しかしここは完全なる外部の電理研である。他者の目に姿を触れさせる以上、身嗜みはきちんとしておきたかった。彼はそう言う性質である。
 シャワールームは大人数で使用するように設計されている場所である。シャワーのひとつひとつに対してきちんと間仕切りがあり個室状態になってはいるが、どれだけの人間が利用しているかはその利用者自身がその目で把握する事が出来た。
 現在このシャワールームを利用しているのは、波留のみだった。ひとつのシャワー個室しか利用されていなかったし、脱衣所にも彼以外の姿は存在しなかったからである。
 彼がメタルダイブから帰還して結構な時間が経過しているはずだが、彼の次に続いたダイバー達は未だ仕事中のようだった。確かに波留達が鮫の海域を平定した事により、新たな仕事が発生しているはずだった。招集されたと思われるダイバー達はそれに手一杯になっているのかもしれないと、波留は推測する。
 しかしそれは、他人の事情だった。少なくとも現在の波留は、電理研からメタルダイブの仕事を請けていない。彼は電理研から結構な案件を委託してきたが、メタルの全ての事情を把握出来ている訳ではない。自らを電理研におけるメタルダイバーと言う駒のひとつに過ぎないと自覚している波留には、それ以上の義理はなかった。
 身体を拭き上げた波留は、着慣れている私服に着替える。青基調の長袖シャツとインディゴブルーのジーンズを纏い、その格好に合わせたスニーカーを履く。鏡を前にして長髪を後頭部で纏め、ゴムで結び上げる。少々伸びた状態の前髪は纏め切れず、彼の額に筋を落とした。
 自らの身支度を整えた後に、ランドリーを覗く。そこに設置された全自動洗濯機のひとつに終了のラップが点滅していた。波留はその扉を開く。その内部には、青色のツナギが乾燥まで終了した状態で留まっていた。彼はそれを取り出し、傍にある台の上に広げて丁寧に畳んでゆく。そして手持ちの鞄の中にそれをしまった。
 これで波留としては、現在の電理研でやるべき作業を終えた事になる。後はこのダイバーの専用区画として扱われている場所から数多くの通路を経て、一般職員も歩くような区画まで戻り、広いエントランスまで向かうばかりだった。そこで受付アンドロイドに見送られ、電理研の地上区画から外に出る。電理研から支給されたチケットを使って水上タクシーに乗り、自宅への帰路に着けば良かった。
 それを実行すべく、彼は歩みを進めてゆく。アンドロイドすら通らない通路を淡々と歩いて行った。
 ダイブルームとは、電理研内でも隔離されたような区画に存在している。それは、メタルを用いてのシステムへの侵入と改竄が可能であるメタルダイバーを、電理研のシステム中枢や研究区画などに近付けさせないようにするための措置だった。そう言う場所なのだから、人通りが少なくて当然ではあった。誰とも出会わないのは、波留としてもいつもの事だった。
 しかし、通路を歩いている途中の波留はふと視線を遠くに向ける。彼はそこに何かの気配を感じたような気がしたからだった。
 波留の視線に気付いたのだろう。通路の隅に居た人物が身じろぎした。ゆっくりと通路の中央に姿を現す。
 そこには銀髪の少年が立っていた。肩に着くか着かないかと言う長さに揃えられた髪がなびく。
 波留は彼の事を知っていた。先程のダイブでフジワラ兄弟共々仕事を行ったダイバーのひとりである。先日、別の案件もこなした経験もある。現在は彼も着替えていて、制服めいた青いツナギではなく白い半袖シャツとジーンズと言う変哲もない私服姿だった。
 今の波留はダイバーを取り纏めるリーダー格としての仕事を寄越される事が増えているために、結構な人数のダイバーと知り合う機会がある。そんな中でも、この少年とは馴染みの関係になりつつあった。
 それでもフジワラ兄弟のように、親しくしている訳ではない。今までは必要最低限の会話しか交わすのみだった。仕事を終えた後には顔を合わせる事もない。それが今、こうして相対している。
 ――状況からして、まさか僕を待っていたのだろうか?波留は心中でそう思い、首を捻っていた。緊急減圧やメディカルチェック、その後のシャワーなどを加味すると、相当の待ち時間があった事になる。
 とは言え、波留が緊急減圧を行う事になり、フジワラ兄弟にリーダー業務を引き継がせた以上、彼らがダイブの事後処理を行ったはずである。正式な報酬や保証などはそれにより算出されるため、少年にはそれを待っていた時間もあっただろう。波留ばかりを待っていた訳ではないと思われた。にしても、日が替わろうとしている時間帯である。
 少年は仏頂面で波留を見ていた。それでも何か文句でも言いたいとか、そう言う訳ではなさそうだった。どんな風に言葉を交わせばいいのか、自分ながら判っていない様子である。
 波留は目を細めた。顔に微笑みの表情を作り出す。手に持つ鞄を脚の隣に提げ、空いた右手を胸に当てた。
「――僕に何か、御用件でもおありですか?」
 人好きのするような朗らかな雰囲気を漂わせ、彼は少年にそう話しかけていた。
 自らのチームで使ったダイバーである以上、波留は少年の最低限のデータは把握している。彼の電脳にそれは保持されているが、メディカルチェックでの所見からメタルへの接続は避ける事とする。
 しかし彼は2061年に生きる人間としては珍しく、電脳に全てを頼らず、生脳の記憶も活用していた。何せ、十数桁の自らの住民コードも記憶していた程である。だからこの少年のデータを思い出す事が出来ていた。
 この銀髪の少年は、多忙だった9月初頭に人工島外から雇われた外国人ダイバーで、年齢は18歳でその名はジャック・シルバーと記載されていたはずだった。
 しかしこれらの登録情報は何処まで本当なのかは判ったものでもないと、波留は理解している。人工島の入島審査はそこそこの厳しさを保っていたが、圧倒的に売り手市場のメタルダイバーなのだから、多少の怪しい人間であっても各陣営は青田買いを掛けている事を知っていたからだ。ましてやメタルダイバーとは、何処かの企業などに所属していなければ、単なるハッカーであり場合によってはクラッカーである。波留自身を含め、あまり真っ当な人間は居なさそうだと考えていた。
 ともあれ、この少年が自らより相当に歳若い事は、その容貌からも確定情報であると思って良さそうだった。勿論現在の世の中では少年型の全身義体を用いている可能性も考慮すべきなのだろうが、そこまで疑っては何も始まらないと波留は思っていた。一回り年下の相手であっても礼儀正しい言動で接するのは、彼の信条である。
 そんな波留が醸し出す優しげな空気が自らの元に届いてくるのを、銀髪の少年は感じ取っている。それに何処となく居心地の悪さを感じたか、彼は前髪を掻き上げた。軽い溜息をつく。
「――…いやさ…」
 少年が用いるのは英語だった。明らかにアジア系ではない容貌であるために、英語以外に人工島で公用語として使用される日本語を解さないだろう事は、波留も判っていた。一方、波留は英語を相当の専門レベルの会話まで理解する事が出来ている。
「俺のせいで、あんたは減圧症になるかもしれなかったんじゃないか。だから、悪かったなって」
 歯切れは悪いが、どうやら謝罪しようとしている様子だった。波留は少年の言動からそれを認める。微笑みを深め、英語を用いて語りかけた。
「大した事ではなかったのですから、気に病まないで下さい」
 ログアウトして波留と別れる直前に謝罪しなかったのは、色々と考える事があったのだろう。鮫に襲われ掛けて動揺が収まっていなかったとか、人付き合いをしていない相手には謝罪するきっかけを逸したとか、そう言う事情だろうか――波留はそう見当をつける。
 しかし、実の所、今となってはその辺はどうでも良かった。現在きちんと謝罪を行っているのだから。おそらくはアユムがけじめをつけさせようとけし掛けたに違いないと波留は推測する。あの兄はぶっきらぼうな態度ではあるが、誰に対しても面倒見が良い事を波留は知っていた。
 笑顔を絶やさない波留に対し、少年は呆れたような顔をする。黒髪の青年は少年の謝罪をあまり深刻に受け止めていないようで、それが意外だったらしい。
 しかし少年はぺこりと軽く頭を下げた。その態度に、波留は好感を抱く。どういう経緯であれ、謝罪が出来る人間は素晴らしいと思っていた。
 少年は顔を上げた。不意に波留に向かって右手を差し出す。
「――これ」
 波留はその手を見やった。そこに握られているのは、紙パック製の立方体だった。それは、この時代においてもメジャーな飲料の形態である。
 怪訝そうに波留はそこに視線を落とす。中途半端に右手を差し伸べかけていた。
「…僕に下さるんですか?」
「ああ。疲れただろ?」
「ありがとうございます」
 少年の意図を汲み、波留はにこやかに笑い、頷いた。手を伸ばし、少年からそれを受け取る。紙パックを握ると若干の冷たさが伝わってくる。購入されて時間を置いていたのか、その表面には水滴は付着していなかった。
 どんな飲物かと、波留はそれを胸の前に持ってくる。ラベルを確認しようとした。背面部分にはストローが添付されているが、その正面を見ようと裏返した。
 そこには黄色基調のデザインが施されており、飲料名としては「バナナオレ」と記載されていた。
 波留はその事実に面食らう。思わず軽く瞠目さえしていた。――普通、大人の男にこんなもの渡すものだろうか?何らかの諧謔でも含まれているのだろうか――そんな想いが彼の脳裏に去来する。
「――良かったら、リラクゼーションルームに行かないか?」
 少年の声を聴き、波留は顔を上げた。そこには銀髪の少年が軽く手を挙げ、台詞の通りに何処かに行こうとする素振りを見せていた。
 そしてその手には、ピンクに近い赤基調のデザインがなされた紙パックが握られている。遠目なので波留には細部までは判り辛いが、どうやらそこには「いちご牛乳」と描かれているようだった。
 ――…これに、大した意味はないらしい。
 少年の手の中身を悟った波留は、そう結論付けていた。未成年の少年なのだから、この手の子供っぽい飲物を欲しても当然なのかもしれないと思い至っていた。そして他の誰もが、それを好きなのだと認識していてもおかしくないのだろうとも。
 そもそも脳を酷使するダイブ直後で、脳が疲れているのは事実である。しかし、これから帰宅して眠るのだから食事は摂らない方がいい。ならばこの手の甘い飲物で軽く糖分を補給して脳を労うのもいい手段だろう――波留はそんな風に好意的に解釈を加える。
 そして彼は少年に首肯する。先行している少年の後を追った。帰宅する前に、会話を交わすのもいいだろうと思ったからだった。
 
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