緊急減圧のために留まる深度は、相当に浅い場所である。それはメタルの海であっても、海上に当たる天を臨む事が出来る深度だった。 リアルの海と違うのは、そこに太陽を掲げていない点だった。海面自体がぼんやりと明るい状態であり、その光がメタルの海に差し込んできている。 波留は仰向けにその深度に漂い、全身の力を抜いていた。バイザー越しに柔らかな光を受け止めている。彼自身には、現状では身体に異常は感じられない。メタル内のアバターとしての身体が正常と言う事は、リアルにおける自らの電脳も正常である可能性が高い。 しかし減圧症に陥る可能性は、完全にゼロではない。彼がエアを使い切り浮上した後には、綿密なメディカルチェックを受けなくてはならないはずだった。リスクを背負ったダイバーに対しては、電理研は厳重に健康管理を行おうとする。それは電理研の危機管理であり、ダイバー自身のためでもあった。 緊急減圧中には自らの電脳を使用しない事が望ましい。だから波留は全てのダイアログを閉じていた。ダイブルームで彼をモニターしている電理研オペレーターとの電脳回線も開いていない。エアを消耗し切った頃に、彼からログアウトの連絡を行えばいい話だった。 そうやって彼は緊急減圧を行った後に、ログアウトした。リアルの託体ベッドに横たわる肉体に意識を回復した際、電脳に痺れを覚えた。しかしそれはメタルダイブ直後には良くある症状だった。脳を酷使する作業を行ったのだから、脳が疲れていても当然である。 メタルダイバーとしての制服めいた青いツナギの生地を肌に感じつつ、波留は託体ベッドからその身を下ろす。そのベッドの天蓋のような上面に、オペレーターからの指示が投影されていた。どうやら波留の電脳を極力使用しないように、ベッド経由で意思の疎通を行おうとしている様子である。 ともかくその青色半透明の素材の一面に、メディカルチェック受診の要請が映し出されていた。波留はそれを視界に入れ、口許に苦笑を浮かべた。掌をその文字の上にかざし、タッチパネルのように押し当てる。オペレーターからの要請を承認した。 その頃には、彼の託体ベッドの傍には医療用アンドロイド達が到着していた。おそらくは先着したアユム達が、波留が減圧症に陥っている可能性を告げていたのだろう。仲間に生じたトラブルはきちんと海上で待つ同僚に伝達する。それがダイバー達の無言の掟であり、メタルダイバーでもそれは代わらなかった。 波留は託体ベッドから両脚を下ろし、床にスニーカーの底をしっかりと着ける。垂れてきた前髪を軽く掻き上げた。首筋に掛かる長く伸ばされ後ろで結ばれた髪は、根元付近には軽く汗を含んでいるような感がある。彼は、額にも汗を感じた。疲れているのは事実らしいが、それも通常のメタルダイブでもあり得る常識の範疇だった。 今まで仰向けに横たわっていたため、その両脚で立った今、大きく背伸びをする。横目に何らかの点滴やストレッチャーまで持ち込んできたアンドロイドを認め、苦笑する。大袈裟な話だとは思うが、本当に減圧症を発症した場合にはそれが適当な措置である事を彼は知っていた。 「――いいよ。自力で歩いて医務室まで行くから」 波留はアンドロイドのひとりに笑い掛けてそう言った。胸の前に掌を見せ、軽く手を振ってみせる。アンドロイド達も彼の様子を見て頷く。 おそらく医療や診察の知識を持ち合わせたアンドロイドは、彼の全身をサーチして、その足取りや姿勢に特別な異常が見られない事を把握したのだろう。だから彼の歩くままにしている。その彼の背後から着いてゆく。 一見健康そうな黒髪の長髪の青年は、アンドロイド数名を引き連れて医務室へと向かっていた。ダイブルームから外部の通路へと続く自動ドアを潜り抜ける。 現在、ダイブルームに残っているダイバーは居なかった。そして今からダイブを行うダイバーも存在しないらしい。メタルに極力繋がない事にした波留は、そのダイバーリストを確認したりは出来ない。しかし青いツナギと言う目立つ服装をした人物が、現状は彼が進んでゆく周囲に見当たらなかった。 ダイブルーム方面は、その名の通り人間はメタルダイバー以外の人間は殆ど足を踏み入れる事はない。実際に今、彼と通りすがるのは、電理研仕様の公的アンドロイド位だった。オペレーターの任に就くアンドロイドや、伝達物を持ち込む秘書型アンドロイド達が闊歩している。 医務室もダイブルームの近辺に存在している。広大な電理研には医務室は各所に設置されているものだが、メタルダイバーとは危険な任務を抱える事が多い職業である。そのために彼ら専用の医務室は、万一の緊急事態に備えてダイブルームの近辺に設置されているものだった。 波留はそこに向かい、早急に減圧症のチェックを行った。こちらにもアユム達経由で申し送りがされていたようで、波留のための準備は既に整えられていた。それでも減圧症とはブラックアウトに匹敵する危険な状態であり、その兆候は見逃せないものである。そのために、その検査は綿密を極めていた。 検査のために精神安定剤を投与され、ベッドに横たわって医療用アンドロイド達に身体と電脳を任せて2時間程度を経る。その頃には電理研所属の医療チームは、現状の検査において波留に異常は認められないと言う結論に至っていた。 しかし、経過を観察する必要はある。だから波留に対しては「今晩一杯はメタルに繋がず、安静にしているように」と言い渡された。 検査明けのダイバーはそれに同意する。医務室で一晩を明かす羽目にならないだけでも、彼には上々だった。彼の左手首に嵌められた真新しいダイバーウォッチに表示された現在の時刻を見るに、既に夜も更けていた。彼の自宅に至るために地上区画に戻ったなら、その風景はとっぷりとした夜闇に包まれている事だろう。そんな時間帯では、やる事と言えば、睡眠だけだった。 減圧症に陥っていないとは言え、彼は電脳が疲れている事には変わりはない。そうなると身体も何処となく疲れを感じるものである。早急に心身共に休まりたかった。 アンドロイド達が出した所見と結論に、波留はペーパー型モニタに対応したタブレットペンでサインを行う。電理研側は波留に極力電脳を使用させないような措置を取り、波留もそれを受け容れていた。 そうやって彼らに解放された波留は、借りているロッカーに預けていた私物を取りに行く。それからダイバーのために用意されているシャワールームに向かった。 電理研の室内温度は一定に保たれているが、長時間のメタルダイブとなると心身共に疲弊しそれだけ生理現象も現れるものである。シャワールームとはダイバー達が汗を流しリアルへの帰還を実感するための、最適の施設だった。 波留はシャワールームの入口でツナギを脱ぎ、そこに併設されているランドリーにそれを突っ込む。彼がシャワーを浴びているうちに、そのツナギは洗濯され乾燥まで終わっているはずだった。私物の大半を占める私服を脱衣籠に入れ、彼はシャワールームに歩みを進めていた。 |