その海域には静寂が訪れていた。プログラム上、その場を蹂躙し尽していた鮫型の思考複合体が消失したからか、海流すらも穏やかになっている。 そこに残存する勝利者たる4名のダイバーは、海を静かに漂っていた。兄弟が一端を掴んでいる網の中には大小の光球が数十個詰まっている。彼らの元まで泳いできた波留は、その群体を見上げた。ひとつひとつは仄かな光だが、それがたくさん集合した事で彼らの顔をぼんやりと照らし上げて来る。 ――どうやらあの鮫は、この海域に漂うデータを破壊し尽くしていたのではなく、取得して溜め込んでいたようですね。 波留から他の3名に対して送られた電通に、アユムは頷いた。ウィルスと思われる思考複合体を破壊したらこれだけの光球が出現したのだから、そう言う結論に至って当然だった。 これらのデータが通常データかそれともジャンク化しているものかは、持ち帰ってから電理研が精査すべき事だろう。そこまでは現在の彼らの任務ではない。 強大な鮫を相手にする事に対しての極度の緊張と、実際に捕獲プログラムを構築し続けた事による電脳の疲れは、アユムを確実に蝕んでいる。そしてそれは他のメンバーも同じ事だろうと、彼は思っていた。――どうも、目の前に居る波留だけは冷静で平然とした態度を保っているのが、彼にとっては不可解なのだが。 が、アユムには思い出した事があった。それは波留を目にする前までは心配していた事であり、現在も解決された訳ではない事だった。思わず指差して電通を送る。 ――…つーか、波留さん、それどころじゃないっすよ! ――減圧症でしょう?でも、上がってきてしまったものは仕方ないですよね。 焦ったアユムの電通に、波留は相変わらず朗らかだった。アユムが心配している事を言い当ててはいるが、笑顔を絶やさない。そして、その笑顔が困ったような印象になる。 ――しかし対策はきちんと取らなくてはなりませんね。対処療法になってしまいますが、これから緊急減圧を行う事にします。 減圧症とは、生物の肉体に掛かる圧力の急激な変化により体内に含まれる気体が血管内で気泡化してしまう症状である。その状態に陥ると、関節の痛みや動機息切れなどの呼吸困難を発症し、重症になると肉体の壊死をも引き起こす。 深度の変化で水圧が変動するリアルの海での症状とはそのようなものであるが、メタルの海もリアルの海の簡易モデルである以上、メタルダイバーは同様の状況に陥れば同様の症状を心身ともに感じてしまうものだった。 一旦減圧症を発症してしまうと、その治癒方法は殆ど存在しない。大掛かりな加圧装置に頼る他ない。それを防ぐため、危険なダイブを行った際には緊急減圧と言う手法を経て、少しでも減圧症の発症を防ぐ事となる。浅い深度にエアが続く限り留まり、体内の気体を出来る限り放出するのである。そしてそれは、手法自体はメタルの海でも同じ事だった。 アユムはリアルとメタル双方のダイバーであり、双方においてそれなりの使い手であった。だから波留の考えをすぐに理解している。だから網の一端を肩に掛ける。まるで光球の群体を背負うようにする。 ――じゃあ、俺らは先にログアウトしてます。波留さんは出来るだけ頑張って来て下さい。 ――ええ。そうします。電理研への報告、お願いします。 アユムの勧めに波留は微笑んで頷いた。それが今の彼の最善策であり、彼もそれを理解していた。そのやり取りにユージンが割り込む。 ――それなら僕らのエアも波留さんに渡しておきましょうか。これからログアウトするんだから、その余りを算出しますよ。 その台詞にアユムは手を打つ。エアが続く限りログアウトせずに留まる必要があるのだから、そこで消費するエアは可能な限り大量である方が好ましい。ならば、仲間内で分け与えてやるべきだった。 アユムはその考えに至り、彼自身もこれから消費する予定のエアの量を計算する。そして現在手持ちのエアから波留に渡して良い分量を切り分けた。胸の前に手をかざすと、その手の周辺を囲むように円形の光芒が出現する。 波留もアユムの手の前に自らの手をかざした。彼の手の周辺にも円形の光芒が出現し、アユムからの接続を受け容れる。彼から送信されるデータ形式のエアを受信した。それは彼の電脳で自らのエアに変換され、蓄積される。 アユムに続き、ユージンも同様の作業を行っている。自分用に最低限のエアを確保した状態でアユムはその様子を見ていた。手持ち無沙汰に周囲に視線を巡らせる。 すると、彼同様に手持ち無沙汰な雰囲気を醸し出している少年ダイバーがそこに漂っていた。銛型攻撃プログラムを右手に展開させたまま、他の3人の様子を只見ている。その彼の姿を認めた瞬間、アユムは唖然とした。 そして次の瞬間には、顔が歪む。脚を動かし、水を蹴る。少年の方へと泳ぎを進めた。 ――お前も、エア分けるんだよ! アユムはそう、叫びの電通を飛ばす。そして右手を上げ、少年の頭を掴む。アユムは成人男性にしては小柄だが少年もまた年齢相応に小柄だったので、アユムの手はどうにか少年の頭頂部に届いていた。 ――波留さんが減圧症に陥るような危険を冒したのは、誰のためだと思ってやがる! そう電通を飛ばしつつ、アユムは少年の頭部を掴んで押し下げていた。その向きは波留達の方だったため、まるで波留に対して頭を下げさせているかのようだった。そしてアユムとしてはその意図も含めていたのだろう。 アユムの電通はこの場に存在するダイバー全員に通っていた。それはリアルにおける音声通話と同様である。だから、それは直接の関わりを持っていない波留とユージンにも通じていた。大柄な弟は、小柄な兄が少年の頭をはたいている姿に呆れたような視線を送っている。そして波留は苦笑気味に彼らの様子を見やっていた。 |