波留が抱えていた事情と計画とは、以上の通りである。そしてそれは、現状において成功しつつあった。鮫は網型の捕獲プログラムに囚われの身となり、その胴を銛型攻撃プログラムに刺し貫かれている。そのアバターは傷口の周辺や鮫の身体の末端から光を生じ始め、細かな欠片がぱらぱらと海に漂い始めていた。 鮫は思考複合体ではあるが、そこに何処まで自由意志を持ち得ているかは謎である。知性ではなく本能で動作しているプログラムならば、波留の計画を理解出来ている可能性は低い。 しかし、その鮫の本能が、自らに悟らせていた。自分が追い駆けていたはずのダイバーは、実は自分を追い込んでいたのだと。そこに知性があるならば、それは焦燥であり怒りとも表現出来る代物だっただろう。 ともかく鮫はその衝動に任せ、激しく暴れていた。刺し貫かれ傷付いた身体が崩壊を進めようが意に介す様子もない。身体を上下に揺すり胴を大きく曲げ、網に体当たりを掛けていた。開いた大口が網の繊維を掠める。 その下方では、マリンスノーの如く粉状となった崩壊するアバターの光の破片を浴びつつ、フジワラ兄弟が両手をかざしている。彼らは網に思考を集中させ、その維持に努めていた。能力的に少年ダイバーの助けは期待出来ない。銛を突き立てた時点で彼の任務は終了している。現状では銛から手を離し身体を引き、巻き添えを喰わないように鮫の上部から遠巻きに様子を見守っているだけだった。 そして現状では波留も遥か海底である。鮫に付き合って急浮上しては彼自身も減圧症に陥る可能性があるために、未だにその領域に留まっているはずだった。彼もまた、鮫を間欠泉に追い込んだ時点でその任務を完了している事になっているのだ。 後は鮫が完全に消失するまで、自分達が網を構築し続けるだけだ。そのために自分達は温存されていたのだから――フジワラ兄弟はそう言った共通の思いを抱いていた。 ――波留さん、こんなのと追っ駆けっこやってたのかよ!? とは言え、アユムの心中には愚痴とも悲鳴ともつかない、そんな叫びが走る。絡み付いた網を維持して巨体を押さえ込むだけでも苦労しているのに、無防備な状態で只逃げて誘導を掛けていた波留の能力の高さと精神力の強さに舌を巻く思いだった。 その時、不意に網目に亀裂が走った。 ホホジロザメののこぎり状に羅列している歯に網の繊維が引っ掛かり、暴れて引かれた勢いで遂に切断されていた。 一箇所に穴が空くと、後は容易いものである。歯がそこに捻じ込まれ、網が引き裂かれてゆく。 ――兄さん! ――やべ! 弟のユージンがアユムに呼びかけ、兄もそれに応じる。意識を更に集中して網の穴を塞ごうとするが、鮫の強大な攻撃力は現在その網に行使されている。彼らが電理研トップクラスのメタルダイバーであったにせよ、その修復はすぐには出来かねていた。 鮫が尾びれを打ち振るう。すると、弱まった網はその鮫の動きを制する事が出来なくなっていた。鮫は絡まる網ごと自らの方向を転換する。突き刺さる銛を物ともせず、海上方向へと振り返っていた。その視線の向こうには、少年ダイバーが居る。 ――逃げろ! アユムは咄嗟にそう電通を飛ばしていた。 とは言え、逃げられる確証などまるでなかった。上部に漂う少年ダイバーは、怯んだように両腕を胸の前に持ってくる。人間として反射的な防御行為だった。そしてそれはホホジロザメの前では殆ど意味を成さないだろう。 余計なプログラムを装填しては機動性が損なわれるため、彼が持ち込んでいたのはあの銛型攻撃プログラムのみだった。それも鮫の身体を貫いたままであり、彼の手から離れている。抵抗の手段は残されていなかった。 網に絡まれたまま、身体の各所に光を生じた鮫が大口を開けて少年ダイバーへと迫り来る。このまま崩壊するにせよ、自らをここまで追い込んだ人間達に対し、最期に瀕するに当たって復讐を遂げようとしていた。 灰色の鮫の身体が、少年ダイバーの細身の身体に影を落とす。バイザー越しの彼の表情は歪んでいる。彼はプログラム上、丸腰に近い状態である。鮫に喰われた時点で、リアルでは電脳を焼かれる事を覚悟した。 その刹那、急に彼の右肩がぐいと押されていた。その衝撃はとても強く、彼の身体がそのまま仰向けにされた状態になる。突然の事に対処出来ず、彼は海上を呆然と見上げていた。鮫の大口が、先程まで彼が居た地点を掠めるのを目の当たりにする。 そしてそこには、居ないはずのダイバーが存在していた。その右手には仄かに輝く白刃が握られている。 海底方向に居るべき波留が細かな泡を纏わり付かせ、少年の背後に躍り出て来ていた。その彼が、勢いのままに左手で少年の右肩を掴んで引き倒したのだ。そうやって鮫の攻撃から少年を無理矢理回避させ、そのまま海底方向へと緩やかに叩き込む。代わりに波留が、鮫の前に姿を晒していた。 ――波留さん!? 下方からもその様子を見る事が出来ていたフジワラ兄弟が、電通で彼の名を叫ぶ。 本来ならば、波留はそこに居てはならないはずだった。間欠泉に乗ってきた訳ではないとは言え、1分少々でここまで浮上してきてはやはり減圧症になる恐れを排除出来ている訳ではないからである。その彼が今、この深度に来ている。その危険性を、兄弟は瞬時に把握していた。 アユムは波留との電通状態を維持していたために、海上方向の様子は間欠泉付近に留まっていた波留にも伝わっていたのだろう。そして今、少年が危機に陥った事を知ったのだろう。――と言う事は、間欠泉並のスピードを保ち、本当に凄まじい勢いで浮上した事になりかねない。アユムはその推測に至っていた。 鮫と対峙した波留は、素早く左手を上げた。網越しに背びれを掴む。鮫はそれに気付き、反射的に波留の方を向いた。開かれた大口が海水を切り裂き泡を生じさせている。 そこに、波留は右手を一閃させた。握られた短刀が、鮫の眉間に吸い込まれ、留まる。 彼の手にした短刀は鮫の眉間に柄まで差し込まれていた。「突き立てる」と言う表現は適当ではない。刃を振るった波留には動揺も力みも見られない。自然な動作で刃をあるべき場所に収めたかのような印象だった。 刃を受けた鮫の動きが停止する。一気に全身が発光した。断末魔の様相を一切呈する事もなく、鮫のアバターが光となって四散した。眉間とは生物にとって確実な急所である。そこを貫かれては、プログラム上の産物とは言え即時機能停止状態に陥り消失する他なかった。 ――波留さん! 崩壊し光の断片となりきらきらと降り注いでくるアバターの残骸を浴びつつ、アユムは波留に電通を飛ばす。そこに返って来たのは冷静な言葉だった。 ――アユムさん、ユージンさん。網の維持をお願いします。 その言葉に名指しされたふたりは我に帰る。両手を海上方面にかざし、思念を集中させた。網を再び完全に構築する。それを破ろうとしていた存在は消失したために、彼らの作業は何者にも邪魔されずに済んでいた。 鮫のアバターが光と共に消失してゆく。そしてそこには新たに光球が出現していた。その大きさはまちまちではあるが、数は相当数が存在している。おそらく数十個と言う印象だった。それらが網に捕えられ、その海域に漂っている。 波留は右手の短刀を網から引き抜いた。腰に提げられた柄にそれを収める。 鮫から解放された銛型攻撃プログラムも網に囚われた状態となっている。彼はそれを左手で掴み、同様に網から引き抜く。それぞれ、光球を傷付けないように気を遣っての動作だった。 そして彼はゆっくりと下方へと降りてゆく。そこに漂う少年ダイバーへと、銛を手渡した。 ――どうぞ。お疲れ様でした。 彼はそう言って薄く微笑む。その瞳は平静そのものであり、今までの出来事に対して心を動かされた様子は見られなかった。 |