――波留さん!大丈夫ですか!? 相変わらずうるさいまでに自己主張してくる各種ダイアログを視界に入れつつも、波留の聴覚は聴き慣れた声を捉えていた。それは彼の電脳に直接響いてきており、展開されていたダイアログにまたひとつ追加されている。 それは電通であり、波留の電脳では通話画面が開かれていた。そこに提示されている顔写真は、小柄なメタルダイバーのものだった。メタルダイバーとしてのアバターを用いている状況だからか、電通のアイコンもフルフェイスのヘルメットに覆われたものとなっている。そのために髪型などは判り辛い事になっているが、バイザー越しに顔立ちは確認出来た。何よりダイアログには、通話者の登録名であるフジワラアユムと言う人名が表示されている。 ――ええ、順調だと思います。そちらはどうでしょう? 波留は四肢を動かして泳ぎつつ、アユムにそう電通を行っていた。背後に大口を開いた鮫を抱えているダイバーとは思えない程に落ち着き払っている。 ――こっちは準備完了です。波留さんが来れば、いつでも行けます。 ――そうですか。こちらも時間通りに進行出来ています。設定カウント通りに計画を進める事が出来そうです。 電通を交わしつつ、波留が僅かに動かした視線の先には、バイザーの隅に投影されている数値があった。それは時間を経るに従い、徐々に減少している。その減り方は規則的であり、明らかに時間を計っている代物だった。 ――…でも波留さん、無理しないで下さいよ?危なかったらいつでも追い払っていいんですからね? そこに、アユムからの電通には心配そうな響きが含まれて来ていた。確かにホホジロザメに追い駆けられている光景を思い浮かべたならば、普通のダイバーは肝が冷える事だろう。特にアユムは、波留同様にメタルとリアルの双方でダイバーをやっている人間である。その恐怖は二重の意味で実感として刷り込まれていた。 ――大丈夫ですよ。もしもの時のために、ちゃんと攻撃プログラムも持ち合わせていますから。 全力で泳ぎつつも、波留は微笑を浮かべた。バイザー越しにもそれは認める事が出来るし、電通を受けているアユムの電脳に展開されている通話ダイアログでも、彼のアイコンは似たような表情を浮かべているはずだった。 その笑顔は確かに、心配しているアユムを安心させるためのものである。しかし波留にとっては、それだけではない。それは自然に沸き上がって来た類のものだった。何故なら現在の彼自身には、焦る理由は全く見付からなかったのだ。 波留は電通状態は維持しつつも、それ以上は言葉を発しなかった。アユム側も黙り込む。連絡が終わった以上、波留の行動を邪魔しないように気を遣ったらしい。 波留の視界の隅でカウントダウンされている数値が、一桁に突入する。彼は展開されているダイアログのひとつに表示されている、座標情報を確認した。それからちらりと視線を後ろにやる。鮫は再び彼に迫りつつあった。鮫が巻き起こす水流が、波留の脚に当たり引き込もうとしている。 彼は視線を前に向ける。メタルの海の先を見通そうとする素振りを見せた。 そして水を掻く右手を下ろした。手探りで腰に回し、腰に提げている短刀の柄に手を掛ける。そこに指を絡ませ、その刀身をさっと引き抜いた。 短刀の形を取るそれは、攻撃プログラムとしてコーディングされたものである。リアルに存在する一般的な短刀とは違い、それは僅かに刃を自ら発光させていた。洞窟内部の暗い海水の中で自然発光するそれはぼんやりと辺りを照らし出している。 波留はその短刀を持ったまま、右手を上げた。再び数度水を掻き、泳いでゆく。 その視界が不意に開けた。天井と海底に、それ程近くはないが視界に移る程度の距離に岩壁が続いていた今までの状況だったが、それがなくなり四方が海となる。彼は洞窟の出口に辿り着いた事となる。 それは彼に逃げ道が増えた事を意味する。となると、こんな状況に置かれた普通のダイバーの場合、鮫との遭遇から生還する見込みが出てきたという考えを抱くものだろう。しかし今ここで逃げるダイバーの顔に安堵の表情は一切浮かばない。むしろ、その表情は厳しさを増していた。 その波留が、鮫に追われつつ開けた海に泳ぎ出ようとしたその時。 彼は唐突にターンを掛けた。身体を翻らせ、鮫に対峙するかのように身体を向ける。今まで全力で泳いでいた彼には推進力がつき、メタルの海に発生している海流にも逆らう状況になっていた。水圧にも似た思考圧が一気に彼に掛かる。吹き飛ばされるような形で、彼は洞窟から身を躍らせていた。 洞窟から脱出した彼は、すかさずその出口の縁に左手を伸ばした。ごつごつとした岩肌を、グローブが捉える。指の力のみで彼はそこに縋ろうとするが、やはり水流に流されようとしている。 それを懸命に堪え、彼は身体を壁面にぽっかりと空いた洞窟の下側に引き寄せる。その勢いのままに右腕を振り上げ、その手に握られていた短刀を岩肌に突き立てた。 その攻撃プログラムは、プログラム上は単なる構造物に過ぎない岩肌に食い込む。その岩肌はメタルの海の各所に見られるような珊瑚などを生い茂らせている訳ではない。つまり、この岩壁は珊瑚のように固定型の思考複合体や情報のジャンクと言う形式ではないために、攻撃プログラムも破壊命令を実行せずに、リアルの短刀のように単に岩壁に突き立てられただけだった。勢い良く叩き付けられたそれは、柄までしっかりと岩肌にめり込んでいる。 波留はその柄に両手を掛けた。しっかりと握り締め、縋り付く。メタルの海流が彼の身体を揺すり、流そうと試みてくる。しかし彼は短刀の柄を掴み、離さなかった。足先までが海流に揺られて伸び切り、海中でふらつく。 短刀は岩壁の内部に入り込み、抜ける様子はない。彼は短刀を角度をつけて突き込んだため、海流の向きが微妙に異なれば抵抗が発生する事になる。短刀と岩壁の傷の隙間からぱらぱらと欠片が海に降り注いでくるが、完全な崩壊には至っていない。 波留がそのように洞窟の縁に縋るのに掛かった時間は数秒である。その突然の変化に、追っていた鮫側は対処出来ない。海流に流されまいと短刀にしがみ付き縋っている人間の上部を、鮫の巨体が通り過ぎていた。 冷静な視線で、波留はその様子を下から見上げている。フルフェイスのヘルメットのバイザーに灰色の鮫を映し出していた。 リアルの海ではなかなか存在しないような10m級のホホジロザメが起こす引き波が彼のバイザーを叩き、ヘルメットをも揺らしにかかっていた。ぱっくりと開いた口が海水を切り裂く。その両脇にあるつぶらな瞳は確かに下を見ており、波留の視線と交錯する。 現状において、鮫のみが開けた海に飛び出した格好になっている。しかし鮫の本能は、獲物をみすみす逃すような事は許さない。すかさず尾びれを返す。鮫にとっては小さくか細い人間がしがみ付いている洞窟の縁を目指し、海底方向へと進路を変更しようとしていた。 波留はその様子を只見上げている。動きを止めている現在の彼は、鮫に襲い掛かられては逃げようがないだろう。しかし彼は冷静な視線を鮫に送っていた。大口が彼の視界に大写しとなるが、当人の瞳に恐怖の色は一切見られなかった。 |