アジアの南海に浮かぶ人工島の暦としては、2061年の10月を迎えたばかりである。その島に居住している現在の波留真理の日常には、電理研委託のメタルダイバーとしての任務が組み込まれている。
 メタル再起動とそのメンテナンス作業に拠る忙しさのピークは8月から9月半ばに掛けてであり、現在は若干の落ち着きを取り戻しつつある。それでも、電理研自体は依然多忙な企業のままであり、それは委託メタルダイバー達にとっても変わらない状況だった。今までの殺人的なスケジュールが幾分緩和されただけであり、彼らは全くの暇になった訳ではなかった。
 彼が全身に纏うメタルダイブスーツは、メタルの思考圧から彼の意識を守っている。そしてそれに付属しているフルフェイスのヘルメットのバイザー越しの彼の視界には、勢い良く切り裂かれてゆく海水と、投影された各種ダイアログが映し出されていた。暗い深海を海流に乗って潜って行っているため、視界を保つためにライトが点灯している。聴覚が煩いまでに海水の音を捉えてゆく。
 彼の眼前には、危険を警告するダイアログがしつこいまでに点滅している。それは視界にちらつくが、彼の視野を妨げる程に鬱陶しいものではない。警告を送るにせよ、行動の邪魔になっては意味がないからである。
 ともかく波留は、冷静に首を傾ける。ちらりと視線を背後に巡らせた。海流に乗り、また彼自身も水を掻いて泳ぎつつの行動のために、完全に後ろを振り返る事は出来ない。しかし彼には海中でのこの手の行動は手馴れたものであるために、特に不具合を覚える事もない。
 水の流れが横切る視界の中、彼の背後には巨大な身体を持つ鮫が大口を開けて迫り来ていた。
 それはホホジロザメと呼称される種類の鮫であり、人間を襲い時には命さえ奪う鮫として名高い生物である。がっちりとした流線型の肉体は人間よりもふたまわり程度も大きい。大口にはのこぎりのような鋭利な歯が並んでいて、噛み付かれては人間などひとたまりもないだろう。
 波留の泳ぎも人間にしては素早いものだが、海とは鮫が支配者として君臨するフィールドである。それはリアルの海でもメタルの海でも、事情は変わらない。
 メタルの海である以上、そこに存在する全ては、思考とプログラムの産物である。鮫のような強大な存在を形作る場合、それは驚異的な攻撃力を持つ事になる。企業が電脳戦に対する防衛措置として配備する攻性防壁が第一にそれに当たるが、あまりの攻撃力のためにその配備は電理研の認可制となっている。電理研が把握していない攻性防壁は存在していないと言うのが建前である。
 それ以外の可能性ならば、攻撃性の思考複合体――所謂ウィルスが考えられた。それは基本的に、アンダーグラウンドなメタルハッカーが自らの技術を誇示するために開発したものをメタルに放流されたものが大半である。しかしそれ以外に、あたかもメタルの海の深層から自然発生的に沸き上がって来るものも存在した。おそらくはその場合は、深層に降り積もったジャンクが組み合わさって半ば偶然に構築された存在であると、メタル技術者達には認識されている。
 現在のメタルの海において自らを追跡しているこの鮫について、波留が電理研が所有している攻性防壁の配備リストと照合しても、データの一致は見られなかった。とすると、やはりウィルスである可能性が高いと思われた。
 どちらにせよ、現在の波留を追う存在が驚異的な攻撃性を持っている事には違いはない。リアルの海において、海中での鮫との遭遇は致命的なものとなる。このメタルの海においても同様だった。波留が海流に乗って逃げているにせよ、相手は鮫なのだから追い付かれるのは時間の問題だろう。
 だが、当の波留は一切動揺を見せていない。着実に泳ぎを進めつつも、冷静な視線を背後に送っている。彼は、腰にはベルトを装備し、そこには短刀型の攻撃プログラムを装填している。しかし、彼にそれを抜く素振りは見られなかった。泳ぐ事に集中している様子である。
 不意に、鮫の鼻先がくいと上がった。波留は、視線の先からも漂う雰囲気からもそれを感じ取る。それを認めた彼は、ほんの僅か眉を寄せた。フルフェイスヘルメットのバイザー越しに見える表情に真剣みが増す。
 鮫は鋭い歯が立ち並ぶ大口を、更に大きく開けた。海水を飲み込む事を気にする事もなく、そのままの状態で尾びれを打ち振った。そうする事で、回遊する速度が増大する。伸ばされた波留の片足を、一気に太腿まで銜え込もうとしていた。
 その仕草を見計らったかのように、波留は海流に乗りつつも両脚を大きく曲げた。身体を折り曲げて太腿が腹に接触するまでに、勢い良くしっかりと両脚を折り畳む。力をそこに溜める。
 そして爪先を上に向け、一気に伸ばして海中に叩き込んだ。細かい泡が立ち昇る中、彼の爪先が捉えたのは、鮫の鼻先だった。
 徒手空拳ではあるが、生物全般にとって弱点に当たる箇所を強く打撃されては、獰猛な鮫と言えども流石に怯んでいた。巨大な図体をよじらせ、回遊を中断する。尚も海流に乗ってはいるが、泳ぐ速度は緩んだ。
 逆に波留は、海中において固体を蹴り付けた事で推進力を得ていた。狙い済ました攻撃を繰り出し鮫を怯ませた彼は、両腕を真っ直ぐ伸ばして出来る限り水の抵抗を受けないような体勢を取る。追ってくる鮫のような流線型のような体勢で、推進力を保ったまま、海流に乗った。
 その勢いも一定時間は持続したが、水の抵抗を完全にゼロに出来ている訳ではないのでそれもいずれ翳る。その時点で、彼は両腕を大きく広げ、海水を掻く。揃えていた両脚も、水を叩くように動かした。今度は自力で泳ぎ、速度を保ってゆく。そうやって彼は、少しばかり鮫と距離を取る事に成功していた。
 しかし、その距離も長くは保つ事は出来ないと、波留は理解していた。
 彼の攻撃は渾身の力を込めたとは言え、あくまで蹴りの一撃だけである。爪先までもがダイバースーツで保護されているが、それは武器ではない。
 泳ぎ潜る際に岩場を蹴り付ける事もあるために、一体型スーツでも爪先は靴のように一定の堅さを保っている。だから確かに蹴られては痛いだろうが、それだけで終わるはずだった。致命傷とはなり得ない。頑強な鮫は、単純な痛みからはすぐに立ち直る事だろうと彼は推測していた。
 そして波留の認識は正しかった。再びちらりと背後に視線を向けると、鮫の尾びれが翻るのを確認できた。巨体の周りに細かい泡を撒き散らしつつも、回遊を再開しようとしていた。図体に似合わずつぶらな瞳が、しっかりと波留に向けられている。海に君臨する捕食者は、自らに歯向かう不届き者を喰らう事を諦めていない様子だった。
 波留は正面を向いた。なだらかな海底を臨みつつも、泳ぎを進めてゆく。ここは狭い通路ではないが洞窟状になっている区画であり、普通に泳ぐ分には全く影響はない。逆に、逃げ道は今波留が泳いでいる一方向にしかないと言う事である。
 思考複合体たる鮫型ウィルスとおぼしき存在も、プログラムされた本能でそれを理解しているはずだった。このメタルダイバーを追い詰め、そのデータを喰い尽くしこの領域から排除すると言う命題は遅かれ早かれ実行出来るはずだと認識していた。
 
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