バイオリンの鮮明な旋律が柔らかく室内に流れてゆく。
 それを弾きこなしている人物は部屋の中央に立っており、その前には譜面台もない。彼にとってその曲は弾き慣れたものであり、暗譜でも浚う事は可能だった。
 白いものが目立ちつつある髪は肩に届く程度であり、それらを後ろに流している。弦を押さえる左指の動きは軽やかで、右手の弓も舞うように動いていた。
 軽快かつ重厚な独奏が旋律の形を取って現実に現れてゆく。そこに彼は想いを乗せていた。窓から差し込む陽光が彼を照らし出し、包み込んでいた。
 彼が弾いた曲はバイオリン独奏曲としては一般的な長さのものであり、それを適当なテンポで弾きこなす。顔に刻まれた皺が彼のキャリアの深さを物語っていた。
 一際弓が長くしなり、弦を捕らえて長い音を立ててゆく。弦を押さえる指は細かく震え、その音を維持させていた。
 やがてそれも終わりを告げ、音は室内の空気を微かに揺らす存在だけとなる。音がそこに溶けてゆく。
 彼はゆっくりと弦を下ろした。顎に当てたバイオリンを外す。軽く首を振ると、肩に掛かった髪が揺れた。
 僅かに寂しさを含ませたかのような笑みを顔に表す。そして窓の外を見た。眼鏡の向こうには青い空が映っている。
 そして彼は、口を開いた。



「やっと聴いて貰えますね。永一朗さん…――」









第5話
バロック
- ubiquitous -

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