海底区画では時間の流れが実感出来ない。それは太陽の動きを感じられない世界だからである。 人間とは有史より太陽の元で生活していた。現在の地球では、温暖化や人口増加により人類の生活地域が徐々に狭められつつある。そのための新たなる人工的な居住地として、人工島が構築されてもいる。ある種のモデルケースであり、ショーケースでもある訳である。 人工島は人類が居住するために建設された島ではあるが、地上部分の面積だけでは事足りていない。そのために地下やその先にある海底も、居住区として重要な箇所と設定されていた。地上区画に入居出来る人間は、楽園と呼ばれる人工島においても極少数の選ばれた人々だった。 繁華街として設計された地域の外れに、その料亭は存在している。一般島民は立ち入らないような場所であり、広い敷地を持つその周囲にも通行人は存在しない。 その立地条件が都合が良かったのか、それとも都合が良いように店舗が建築されたのか。どちらが先をする話なのかは現在の利用者達には判断がつかない。ともあれその一見して数寄屋造りの日本家屋の門扉や庭園、その奥に位置する長屋に至るまで、各所に評議会仕様の公的アンドロイドが配備されていた。彼女らがその身に纏うのは、警備員としての制服である。 「――人工島は食糧問題を抱えていると伺っていたけど、なかなか美味しい料理を出して頂けましたね」 ある程度の座敷に余裕を持って配置されている座卓に、3名の人間が着いている。その上座には白髪の老女が着き、出されたおしぼりで口許を拭っていた。 「お気に召して頂けたなら、光栄です」 彼女の向かい側に座っている妙齢の女性がそう言ってはにかんだ。眼鏡の奥の目を細め、軽く頭を下げる。彼女こそが人工島の支配者のひとりである、現評議会書記長の任に就いているエリカ・パトリシア・タカナミそのひとだった。 その料亭では会席料理が出され、彼らはそれを楽しんでいた。現状では殆どの料理のメニューが消化され、座卓の上からはそれらは片付けられていた。後はデザートである水菓子を待つばかりとなっていた。 その合間の時間に、彼女らは会話を行う。タカナミ書記長の隣には電理研統括部長代理である蒼井ソウタが席に着き、同様に会席料理を食していた。 しかし彼はここにおいても聞き役に徹している。彼の存在はふたりの女性には大して興味を持たれる事もなく、自分はここにいる意味があるのかと僅かに疑問を持っていた。かと言って女傑ふたりの間に割って入る事もしない。様々な事情に拠り、それだけの気力が彼にはなかった。 出された緑茶を前に、女性陣は会話を進めてゆく。 「――あなた、日本の御出身?」 「両親は日系ですが、私は違います。しかし日本には評議員として数度訪問した事があります」 「そう…道理で、日本語お上手ね」 「人工島にとって日本は重要なパートナーです。それはこの島の公用語のひとつに日本語が採用されている事が証明しております」 「電理研は元はと言えば日本の企業ですものね。その構成員に日本人が多いのは当然で、彼らの意向も反映されていると言う事ね」 微笑みながら老女は緑茶を啜っていた。彼女には、話の方向性が見えてきていた。それを口にする。 「――私が久島の姉だから、この老婆に会食のお誘いを下さったの?あなたはとても偉い人と訊いているのに」 彼女は微笑みを絶やさないまま、書記長を見やり言う。彼女はここに政治的な話の流れを垣間見ている。つまりは自分は政治的な駒に過ぎず、その接待を行いたかったのだろうと判断していた。 その態度にタカナミは動じない。やはり微笑んだまま、手を振ってみせてその言を否定する。 「いえ…あなたは久島部長の実姉でいらっしゃる以上に、日本舞踊の踊り手として名を馳せておいでです」 「そうね。伝統芸能の既得権益って怖いわよね。私のような人間でさえ政治家や資産家との繋がりがあるのだから」 老女は口許に手を当てて笑った。どうやら話の矛先は弟ではなく自分に向けられたらしい。しかしそこにも彼女は、やはり政治的な要素を嗅ぎ取る。そのような扱いを受ける事には慣れていたし、そのあしらいも彼女にとっては日常茶飯事だった。 「それを考慮している事は否定しません。しかし…」 ここでタカナミは言葉を切った。気を持たせるような態度を取る。 それを隣のソウタは静かに見ていた。伊達に書記長まで上り詰めた人物である。話の相手を惹き付ける会話のテクニックには長けている事を、彼は良く知っていた。 そして久島部長が偉大過ぎるだけであって、その姉であるこの老女も単なる一般人とは言えない地位にある事を彼は知識として知っている。そして先程まで会話で翻弄された体験から、一筋縄では行かない人物であるとも学習していた。やはりこのふたりのやり取りには介入出来そうにない。 「――…しかし?」 タカナミの会話の引きに、老女は食いつく。その言葉尻を繰り返し、問い返していた。 そこにタカナミは顔を上げる。勢い込んで座卓に両手を乗せ、その手を組んだ。それなりに広い卓の向こうに居る老女に対し、覗き込むような態度を見せる。 「私はあなたの事を尊敬しているのです」 書記長の態度とその台詞とに、老女は思わず軽く顔を突き出していた。怪訝そうな表情を浮かべ、熟練した美貌を持つ女性を見やる。 「――あら厭だ。お世辞にも程があるわよ、お嬢さん」 彼女は僅かに戸惑いを見せ、そんな事を言っていた。身体を引き戻す。膝の上に両手を揃えた。 相手側の引いた態度に乗じてか、タカナミは胸に手を当てた。ますます熱意を込めて言葉を継ぐ。 「お世辞ではありません。あなたの踊りは記録映像で拝見しております」 「私、30年前には既に一線を退いているのだけど…とても古い物を御覧になったのね」 「生で拝見する機会には恵まれませんでしたが、その映像だけでもあなたの踊りは素晴らしいと思いました」 書記長が発する美辞麗句に、老女は微笑んだ。彼女の才能を褒め称えるかのような熱弁は非常に心地良いと同時に、何処か座りが悪い物を内心に感じてしまう。 それは彼女自身が、素直にそれを受け止めていいものか、迷っているからだろうと判断した。事実、この書記長の語っている言葉は本心からなのか演技そのものなのか、彼女には判別がつかないのだ。確かに政治家としてかなりの技量を持ち合わせているのだろうと、その能力だけでも彼女は評価せざるを得なかった。 だから問いを変える事にした。老女は微笑んだまま、向かいに座る黒髪の女性に問い掛ける。 「あなたは、私の踊りの何処が素晴らしいと思ったのかしら?」 建前としてのお世辞ならばいくらでも言える。ならば自分の言葉で語って欲しかった。それがこの書記長が今思っている気持ちの証明になるだろうと、彼女は思う。 その自分の中にも意地悪な部分がある事は否定しない。この問いに対してどう解答するか、それを訊き見定めたい気持ちがあるからだ。それは先にソウタにも浴びせた言葉と同等の意味合いがあると、彼女自身認識していた。 そしてその問いを投げ掛けられた書記長の笑顔が僅かに強張った。それを老女も、隣に座るソウタも、感じ取る。おそらくは直感的に、この問いが自分を試すためのものだと知ったのだろう。人の会話に対する嗅覚の鋭さがそこにある。 ソウタは隣をちらりと見た。自分が助け舟を出すような事ではないし、そんな事をしても足手纏いでしかないだろうと彼は思っていた。しかし、どう切り抜けるのかは気になるものだった。 やがて、タカナミは胸の前に置いた手に力を込めた。ふっくらとした唇が言葉を紡ぎ出す。どういう事情か体温が高くなったのか、その頬は微かに紅くなっていた。 「――あなたの踊りを見ていると、別の世界を感じられるからです」 「別の世界?」 老女は書記長の言葉を捕まえ、問い返す。それにタカナミは頷いた。再び会話の主導権を自らの元に引き戻す。 「私個人では見る事が出来ない世界です。芸術とは、凡人にそんな疑似体験をさせてくれるものだと、私は信じています」 強い言葉を用い、タカナミはそんな事を語っていた。口を閉じ、そっと右手を湯飲みに伸ばす。未だ湯気を上げているその緑茶に口をつけた。ひとまず話を打ち切る。 「…成程。あなたはそう考えているのね」 確保された間を前に、老女はそう言いつつ膝の上を見た。彼女は綺麗な姿勢で正座しており、その膝の上に手を重ねている。そして視線をその膝の脇に向けると、畳の上に彼女の手荷物であるハンドバッグが置かれていた。 「つまらない人間である私には、過ぎた評価だわ」 向かいに座るふたりにはその横顔の口許に微笑を浮かべているのを見せ付けつつ、老女はそう言う。ハンドバックを膝の上に乗せ、留め金を外す。そこに手を突っ込んだ。 「そう言われると、ついついサービスしたくもなるわ」 老女は膝を撫で付ける。そのまま足を崩し、立ち上がった。長い間正座していた事になるが、彼女の足は全く不具合を見せていない。白い足袋を履いた両足がそのまま畳を捉えて立つ。 彼女はすらりとした細身の身体を、書記長とソウタの前に見せた。座った状態のままであるそのふたりは、彼女を見上げるばかりだった。 「あなたの真意は判らないけど、文字通り踊らされても後悔しなさそうね」 そして老女の手の中にあるのは、扇子だった。 |