日本舞踊としての踊り手として、久島のぶ代と言う女性を尊敬している。タカナミにとって、その言葉に嘘偽りはなかった。
 確かに記録映像は、彼女の人工島入りに合わせて閲覧していた。しかしそれらを過去に見た経験は、タカナミの中に存在している。今回の機会ではそれを追体験したに過ぎない。
 過去にその動画を見た動機も、日本訪問を前にして日本文化の理解のためだった。政治的な要素が多分に含まれていた事は、否定しない。しかし直接のきっかけはどうあれ、そこに尊敬と感動をもたらす踊りがあった事は、事実だった。その感動自体を疑われたくはなかった。
 そして今、本物の久島のぶ代が、彼女の前で踊りを見せた。どうやら彼女の答えを、この老齢の芸術家はお気に召したらしい。
 一線を引いて30年ともなりひとつの舞を踊るには体力が持たないと言い、ここで見せたのはある種の型のみだった。それでももう生では見られるはずもなかった踊りを、彼女はリアルで体験する事が出来ていた。
 ――姿勢の良い老女の腕は伸ばされ、その先にある手に水平に開かれていた扇子が、ぱちんと音を立てて閉じられる。
 その音は、人間を現実へ帰還させるための合図だった。少なくとも彼女の踊りを見ていたふたりの観客にとっては、そうだった。
 更に踊り手である老女も、その音を境に姿勢を解く。溜息めいた呼吸を大きく漏らし、腕を下ろし身体全体を弛緩させた。僅かにずれた和装の合わせを引く。
「――まあ、30年振りにお客様に見せるとなると、こんなものかしら」
 言いながら老女は扇子を帯留めに差し込む。傾いた顔には汗が伝った。
 その様子を見るタカナミは、息をつく。まるで呼吸を忘れていたかのように、息苦しかった。芸術家の気迫と言うものに押されていた心地である。しかしそれが解かれた今、彼女は歓声を上げようとした。それは心のままに発しようとするものだった。正座した身体が伸び、持ち上がろうとする。
 しかし、その彼女の前に老女は右手を突き出した。まるで演目が続いているかのように真っ直ぐに伸ばされたその手を、横に薙ぐ。その仕草にタカナミは動作を中断していた。
 和装の袖をなびかせつつ空気を薙ぎ、老女の細い手首が動いてゆく。それはタカナミではなく、その隣に座っていた黒髪の青年の前で静止した。
「――あなたは私の踊りを見て、何を感じたのかしら?」
 いきなり話を振られ、ソウタは当惑していた。彼は芸術と言うもの興味を持たない。理系人間であり理論で分析出来るような事には長けているが、芸術には疎い。
 だから、彼が今感じた事をそのまま告げていいのか迷っていた。彼は戸惑い、口篭る。
「えーと…その…何でしょう」
「あなたが見たままの事をそのまま告げて下さっていいのよ」
 その場に立ったままの老女は、優しくそんな言葉を彼に投げ掛けていた。それに、ソウタは前髪を掻き上げる。掌に感じる自らの髪は相変わらずの硬さで、そんな変哲もない所で彼はリアルを実感していた。そうしなければ、脳が整理出来なかった。
 掻き上げられた前髪は手の動きに従い、上に向かった後にそのまま落ちてゆく。その動きを頭皮や顔に感じた後、彼は観念した。老女の求めに従い、台詞を述べる。
「…その扇子が、何かの枝のように見えて」
「あらそう」
 若干大袈裟な口調で老女は言葉を発している。それを目の前にして、ソウタは微妙な心境になった。からかわれているのだろうかと思ってしまう。
 大体、あの扇子が別の物に見えるなど、自分で言っておきながら、あり得ない話だった。脳をクラックされたのかと勘違いして思わずウィルスチェックをしてみたが、全く検知されていない。
 ふと横からの視線を感じる。彼はそれに応じて首を巡らせると、タカナミ書記長が彼を見やっていた。眼鏡の奥にある瞳は何処となく楽しげで、彼女もまたこの若者の反応に思う所がありそうだった。どうもこのふたりの女傑は似ているような気がしてならない。
 ともあれ、彼は言葉を継いだ。この不思議な事態に観念する。感じた事を全て吐き出さなくては、この両者から許して貰えそうにないと思った。
「…藍色の花がついていたように思えました」
「――まあ、私の腕も落ちていないと言う事かしら?」
 ソウタの告白に、老女は頬に手を当てて微笑んでいた。それを見やってソウタは肩を大きく揺らす。溜息をついていた。その隣から、タカナミ書記長が口を挟む。
「今のは、藤娘でしたわよね?」
「ええ。――ごめんなさいね。答えを知ってそうなあなたに訊いてもつまらないと思ったのよ。それ以上の他意はないわ」
「いえ…私も確かに藤の枝を見ましたから。生だと質感すら感じてしまいますね。素晴らしいです」
 舞踊の名手とその知識を持っているふたりの会話を耳にしたソウタは、自らの電脳からメタルに接続する。彼女らの話から入手した「藤娘」と言うキーワードで検索を掛けていた。その結果はすぐに現れる。芸術に興味がない彼には判らなかったが、どうやら世間的にはそれなりに有名なワードらしい。
 それは、どうやら各派舞踊における有名な演目のようだった。検索で引っ掛かった多数の情報から大まかな説明を拾うに、松の大木を前に藤の精が藤の枝を持って踊る代物らしい。
 その説明文が、彼が先程感じたイメージを補足してゆく。確かに、藤の枝が見えてもおかしくはなかったのだ。
 ――だとすると、この人物は、踊りを通して何らかのイメージを見せると言う事か?そこまで凄い踊り手だったのか?何せ、舞踊に対する知識を持たない自分にすら、鮮明な幻を見せたのだから。
 それはまるで――。
「――…まるで、メタルを介したみたいだ…」
 そこでソウタは呆然と呟いていた。あまりに動揺したらしく、彼の心境が、そのまま言葉になって吐き出されている。
 その言葉を訊いたらしい。老齢の踊り手は彼の方を見る。微笑んで口を開いた。
「――ええ。今の時代の新流派には、メタルを利用して舞台設定を観客の脳に投影する所もあるようね」
 老女の説明に、ソウタも彼女の方を見た。そこで彼は初めて、自分が思っていた事を口に出していた事に気付く。そのために表情が素になっていた。頭に手を伸ばし、髪を掻く。
「…あ、すいません。出過ぎた事を言ってしまったようです」
「別に構わないわよ。私は電脳化してないから、そんな事をする芸術家の気持ちが良く判らないだけ」
 歳相応の青年らしくぺこりと頭を下げてくるソウタに対し、老女は涼しい顔をしていた。
 その頃には仲居がやってきて、会席料理コースの最後に当たる水菓子を彼らに振る舞ってゆく。老女は差し出された皿に視線を落とし、仲居に会釈をしつつも、そこに続く話は相変わらずソウタへのものだった。
「芸術には無限の可能性がある。それを突き詰める手法はいくらでもあるでしょう。私は年老いて一線を退いた今でも自分の手法を辞めるつもりはないけど、他の手段に対して干渉するつもりもないわ。――もっとも、私はそんな手法は邪道だと思うけど」
 高齢の踊り手の割に物分かりの良い言葉を並べつつも、彼女は最後にはそう付け加える事を忘れていなかった。やはり彼女は自分の踊りに対して誇りを持っている様子だった。
 
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