蒼井ミナモは、波留真理の隣に立っていた。頭ひとつ分背の高い彼の顔を見上げている。 今まで深刻な話を展開してきた当事者達のうちの人間ふたりは、先程この部屋から出て行っていた。彼女の兄たる青年はずっと表情を硬くしていて、どれ程の重圧を受けているのだろうと妹ながらに感じていた。仕事量もさながら、今回の依頼は彼には辛過ぎるものだろうと彼女にも理解出来ていた。 対して、彼の後ろから退出してゆく老女は相変わらず凛とした印象であり、老体と言う感じを全く見せていない。退出する際にミナモに挨拶をして行っているのだから、やはりお友達のままでいいのだろうと彼女は嬉しく思っていた。 ミナモはそんな事を思いつつ、隣に居る波留を見上げている。彼女の隣に立つ彼は相変わらず表情が硬い。確かに心情的な立場としては、彼はソウタに近いものがあるだろうとミナモにも悟る事が出来る。親友を見殺しにするかもしれないこの展開の前には、いつもの朗らかな笑顔を見せる事も出来ていない。 波留はデスクの前に直立し、車椅子に腰掛けた義体に視線を落としている。義体は、彼が保持する脳核の血縁上の姉との会話を終えた後、首を振って俯いたままだった。視線を当てて来ている波留の事を一切意に介していない。 それは彼を無視していると言う訳ではなく、AIとしての態度を前面に出しているだけである。人間から質問を受けてそれに答えを返し、それに次ぐ会話がなされていないために、そのまま待機モードに入っているのだろうと波留自身には思われた。だから彼も一切気分を害していない。 蒼井ソウタと久島のぶ代が去った今、波留はデスクの前に進み出ていた。黒色のモノリスとその使用者を前にしたまま彼はしばし沈黙していたが、ふっと口許に笑みを作り出した。そして普段から彼が漂わせている優しげな雰囲気を表し、口を開く。 「――今日、折角伺ったのですから、メタルについてあなたにお訊きしたい事があります」 目の前の人間から質問を投げ掛けられ、義体はゆっくりと顔を上げた。彼のAIの内部にて、原始的な対話プログラムが稼動を開始する。 「私が保持している知識に該当するものがあるならば、答えよう」 既に認証を済ませている人間からの質問を彼は受け容れる。彼が命題として受け容れている、膨大な知識の護り手めいた態度を取り始めた。 波留は今年初頭に50年の眠りから覚めて以来、AIとの付き合いには慣れている。彼に付き従っていた介助用アンドロイドには高度な対人プログラムがインストールされていたためにほぼ人間めいた相手として対応出来ていたが、その根幹はやはり人間とは異なっていた。限りなく人間に近付けようと設定されているアンドロイドですらそうなのだから、原始的な対話プログラムしかインストールされていないAI相手ともなれば、その延長線上に存在するものとして応対出来るものだった。 「現在のメタルの海に…久島の記憶の断片が、ジャンクとして漂っている可能性はありますか?」 人間からのその問いに、義体は一旦沈黙した。ゆっくりと瞑目してゆく。彼やこの部屋のメタルが保持しているデータにアクセスしようとしているのだろうが、波留にはその義体が只考え込んでいるようにも見えていた。 もっとも、彼が発した問いはデータ検索で必ずしも答えを導き出せるようなものでもないために、AIなりに思惟に浸る事もあり得ない行為でもないだろうとも思う。そもそも波留自身、このAIが抱える知識に頼っての質問なのか、我ながら判然とはしていない。 数十秒の沈黙を経て、義体は瞼を上げた。目の前に立っている人間を見やる。そしてその口端に答えを乗せた。 「――理論的にはあり得ない。メタルは初期化された。そのために、それ以前のデータは全て消去されている。彼と言う個がメタル初期化以前にその海に溶けて消失した以上、再起動以降のメタルにはその断片すら漂っていないはずだ」 「…そうですか」 義体が導き出したその答えに、波留は頷くように軽く頭を下げた。その問いと答えは、「情報の海」としてのメタルの概念を再確認したに過ぎない。 ――とすると、今日メタルの海で取得したジャンクは、やはり別物のジャンクなのだろうか。断片化した久島の記憶の一部との直感に従い、自意識を危険に晒し電理研を欺いてまで私的に取得してきたが、それも誤りだったと言う結論になってしまう。 波留が半ばそう後悔している所に、義体は言葉を続けてきた。 「――だが、現実は、理論と異なるかもしれない」 「…と、仰ると?」 淡々としたその口調に、波留は義体の真意を把握しかねた。その義体は、直前に語った論理に相反する意見を述べようとしているからである。 日常的に思考に揺らぎが見られる人間ですら、舌の根も乾かないうちに逆の意見を発する事は奇妙な行為だろう。理論的な思考でのみ動くはずのAIならば尚更である。 だから波留はその先を促す。怪訝そうな表情を浮かべ、義体を見やっていた。 「私を始めとしたアンドロイド達がそれを実証している。初期化されたはずのメタルから、初期化以前の記憶を伴って復帰しているのだから。そんな事例など、理論上はあり得ないはずだった」 義体の淡々とした口調は継続している。彼が自らの体験に即した論理を述べてゆく姿を、波留はそのまま見やっていた。 「メタルと言うシステムは、開発者や運用者達の予測を超えて発展してきた。それは久島永一朗が健在である時点においても、それ以降の現在においても、変化していない。理論が現実に追随せざるを得ない状況も存在する事は、否定出来ない事実だろう」 「…そうかもしれませんね」 波留は今度は、静かな態度を保っているものの、確信を込めて頷いていた。その意見は波留が今日のメタルで体験した事件について裏付けを与えてくれたからだ。 保持するデータそのものに完全に依存していないものの、それはAIらしく理論に則った結論である。信じるに値するものであると、波留は確信した。或いは、彼はそれを信じたかったのかもしれない。その口許にも僅かに笑みが浮かんできていた。それは心からのものだった。 |