目の前の「弟らしきもの」が言ったその台詞に、年老いた姉は唖然としていた。面食らったように僅かに顎を引き、軽く目を見開く。その瞳で義体を見下ろす。 その視線を義体は受け止めた。その表情は怪訝そうなものとなっている。まるでそこに居る老女を咎めるような印象さえ与えるものだった。声質自体はあくまでも無感動なものであり、淡々とした口調で言葉が続く。 「私は君を判別するコードを持っていない。部外者に何故この部屋への入室許可が出ている?統括部長代理の指示か?」 それはAIとしての発言と考えるならば、全く正等なものだった。セキュリティが最高レベルとなっているこの部屋には、部屋の主が全く知らない人間が入室する事などあってはならないからだ。実際に他の三者については、彼は既知の相手であり与えられたプログラムがその存在を認めている。 だから、そうではない初対面の人間に対しては、入室許可が出された可能性を考慮しつつも誰何して当然である。それは誰しも理解出来ていた。 しかし、この部屋に居る人間達は、彼にその態度を求めてはいなかった。だからこの姉も驚いているのだ。 「…あなた、久島永一朗の記憶を引き継いでいるのではなかったの?」 この事態に当惑して、老女はそう質問を投げ掛ける。彼女はそれを前提として、ここに来ていた。届けられた手紙にもその概要は述べられていたし、先程の部長代理からの説明も同様だったのだ。 しかしこの義体は「姉」を認識しない。これは一体どう言う事なのだろう――周囲を見るに、全員驚いている様子だった。部長代理の青年ですら、顔を上げて義体に驚きの視線を送っている現状だった。 義体には、老女の当惑気味の視線を始めとして、その他の人間達からも類似した視線を遠くから投げ掛けられている。彼はそれを浴びつつも一切態度を変えようとはしていない。 そして彼は口を開いた。咎めるような表情は流石に緩和されたものの、やはりその口調は無感動なものだった。 「私に質問を行いたいならば、まず名乗って貰えないだろうか。そうやって私が君の存在を認識しなければ、プログラム上、答えられない」 彼の応対は相変わらずプログラムによって起動するAIとしてのそれである。それも、対人要素を持たないような、かなり原始的なプログラムだった。人間の機嫌を損なわないように言葉を費やす事はせず、自らの要求を突き付けてくる。 「…そう」 彼女はその態度に面食らう。この電理研を訪れて、彼女に接した他のアンドロイドは同じ容貌をしていたが、柔らかな言動を用いていた。人間型アンドロイドが人間に接する以上、それが当然の態度なのだろうと思っていた。しかしこのAIは違うらしい。 気を取り直した風に老女は顔を上げる。改めてその義体を見据え直した。軽く息をつく。喉の奥で微かに咳き込んだ後、口を湿らせた。そして、簡潔に名乗る。 「私は久島のぶ代。永一朗の実の姉よ」 「…ああ、成程」 老女の言葉に、義体は頷いた。首を曲げて俯き、デスクの上を見やるような態度を取る。しかし、すぐに顔を上げた。彼女の顔を無遠慮に凝視し始める。 「――言われてみれば、君の顔の要素は久島永一朗に類似した部分が多いようだ。その顔は生身のもので、整形の形跡も見当たらない。だから、姉との名乗りには正当性が感じられる」 しばしの沈黙の後、義体は老女の顔を見つめながらそんな事を言った。おそらくはその電脳では保持しているオリジナルの顔画像データと現在前に立つ「姉」を名乗る老女の顔を画像として取り込んだものとを、画像解析プログラムを行使して比較しているのだろう。更には肌質から生身か人工物かも判別し、そして整形手術の可能性すらも考慮していた。彼はセキュリティとして用いられる顔面認証技術を存分に行使している事になるが、その言葉には遠慮と言うものがまるで存在していなかった。 ある程度の間を置いてから、義体の瞳の焦点が一瞬揺らいだ。どうやら画像比較プログラムを終了させたらしい。おそらく彼の電脳内で展開されていたダイアログがいくつか閉じられ、彼の視界が変化したのだろう。 視線の上では彼はずっと老女を見つめていた。しかし先に挙げた瞳の印象から、改めて見やったようにも見える。そして彼は口を開いた。 「質問への答えだが、私は久島永一朗の記憶の全てを引き継いでいる訳ではない」 そもそもはこのAIは彼女から質問されたから、認証を働かせた訳である。それが終了した以上、その質問に対する答えを発して当然だった。しかし話の流れではそうなり得るとは言え、人間達にとっては若干時を逸したような答えである。 それでも答えを受けた姉は、その内容に困惑した。声を上げる。 「え?そんな話は訊いていないわよ?」 確かに「姉」を認識していなかった時点で、受け継いだ記憶には傷があるのではないかと言う疑惑はあった。しかし実際にそうだと断言されてしまうと、改めてそれを口にしてしまう。 老女は伺うように傍に居る青年ふたりに視線を送った。するとその両者は慌てた風に首を横に振る。どうやら、彼らにとっても全く知らない事実であるようだった。 そんなアイコンタクトを人間達が行っている最中、義体の説明が流れてゆく。 「人間達が私に求めるものは、彼が抱えていた様々な研究に対するデータだ。それらは完全に私に受け継がれている。そのために私と言う存在が久島永一朗によって用意されたのだからな」 人間達にとっては聴き慣れた声質である。しかしそこに感情は一切存在しない。淡々とした口調で説明が続いていった。 「逆に言うと、それ以外のデータは優先順位が低いものとして分類され、保存の対象から外されているものが存在する。いくら私のAIから制動系を始めとしたプログラムを極力削ったとは言え、82年を生きた人間の脳が保持するデータ全てを保存する事は、容量上不可能だったからだ」 義体の言葉はそこで途切れた。口を閉じ、ちらりと老女を見上げる。それ以上は語るまでもないと判断したようだった。 老女は彼の顔を見やる。彼女の方も然程表情を見せていなかったが、そこに僅かに眉が寄せられた。皺が刻まれた口許が開く。 「…つまり、私の存在を、彼は保存するに値しないと判断したと言う事ね」 「具体的な表現を用いるならば、君のその結論が適当だろう」 「全く、彼らしい話だわ」 姉の事は、存在した事実すら記憶するに値しない。弟はそう言う判断を成したと、言い切る。――この話の流れに、その姉は苦笑さえしてみせた。 周囲の人々がこの義体の保持する記憶の、オリジナルとの差分に全く気付かなかったのは、求めるものの違いだったのだ。電理研幹部を始めとした大半の人々は、彼には研究データなどへの知識しか求めていない。パーソナルな記憶などゴシップレベルの代物でしかなかった。 そしてこの周囲の人々は義体とは既知の関係であったから、他の人間に対しても記憶が残されているのだろうと思い込んでいたのだった。しかし義体にとっては、彼らの存在こそが知識を告げるための絶対条件だった。そう言う風に久島当人が、AIにそう設定したのだ。 久島と言う存在は消失したが、そこから取り零し、失われたものなど一切ないのだと人々は信じていた。しかしそれはどうやら違ったらしいと、この部屋に居合わせた人々は認識を新たにしていた。 |