蒼井ミナモは人々の順列の最後尾に位置していた。
 メタルを基幹システムに位置付け生活に浸透している人工島においても、ここまでペーパーインターフェイスを求められる日もそうそうないとは思うが、これでひとまずは目的地に着いたらしいと考える。彼女は持ち続けていた携帯端末を、手提げ袋の中に戻した。
 その手にはふたつの手提げ袋が下がったままとなっている。――ソウタには渡したけど、お父さんには渡し損ねちゃったなあ。彼女は重量を感じるそのひとつの手提げ袋に対し、若干の後悔の念を抱いていた。
 何せここまで色々な事があり、自分が望んだ事とは言えずっと巻き込まれているのだ。彼女が電理研を訪れた本来の目的である差し入れ行為は、何処かに吹き飛んでいた。何処かの段階でホロンに頼めば善処してくれたかもしれないが、その秘書用アンドロイドは早い段階で席を外してしまった。わざわざ自分のためだけに呼んで貰うのも何か違うと思い、結果的に少女は父親の元に行くべき弁当を未だに抱えている。
 彼女の前には波留の背中がある。現在の彼は、彼女の兄よりも背が高い。ミナモの前にはそびえ立つように広い背中が存在していた。
 それを見やった後に、ミナモはしばし室内を見渡す。天井の灯りは点灯しており、部屋を照らし出していた。そこには質素と言うにはそれなりに重厚な印象を受ける棚や応接セットなどが並んでいる。部屋の主の地位に似合った家具が揃えられているらしい。
 ミナモはそれらを眺めやりながら、新鮮な面持ちとなっていた。彼女は久島の事を「お友達」と思っており、波留程ではないがそれなりに「お付き合い」をしてきたと認識していた。それでも彼女はこの部屋を訪れるのは初めてだった。ミナモにとって電理研の久島は部長オフィスやオペレーションルームの人であり、このようなプライベートルームに足を踏み入れるような関係ではなかった。
 ――波留さんならば、ここは馴染みだろう。ミナモはそう思い、高い位置にある波留の頭を見上げた。
 4月以降、ミナモは波留と久島と関わり合って行った。その中で、久島が波留の事務所に足しげく通った事よりは頻度は落ちるが、それでも波留がかなりの頻度で電理研に出向いていたのを知っていた。その際にはやはりこう言ったプライベートな空間で和んでいたのではないだろうかと、彼女は想像を巡らせる。
 そんなミナモの視線の先にある波留の横顔は、しかしそのような印象ではなかった。口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せて前方を見ている。そこには和やかさの欠片も感じられなかった。ミナモはそれを不思議に感じる。
「――今日の来客は、大勢だな」
 ミナモの思考を遮る声がした。彼女はその声に、前を向く。波留が見ている更に前方に視線を投げ掛けた。
 その向こうにはソウタが立っていて、その前にはデスクが置いてある。柔らかな室内灯に照らし出されているそれは、部長オフィス同様にモノリス状の黒色の大きなデスクだった。
 そしてミナモはそのデスクの向こうに人影を見出す。彼は座っているらしく、頭が低い位置にあった。天井から光が降り注ぎ、褐色の髪を明らかにする。そして革張りの背もたれが光を弾いている。それには肘掛けが付属しており、彼はそこに両腕をそれぞれ置いていた。その姿はスーツ姿であり、ジャケットこそ羽織っていないもののミナモにとっても見覚えのあるネクタイとベストをシャツの上から纏っている。
 ミナモはその人影が誰であるか、すぐに理解していた。その名が口を突いて出る。
「――久島さん!」
 少女は前のめりになり、そう叫んでいた。思わず足が数歩前に出て、波留を追い越す。
 しかし、一瞬後には思考が行動に追いつく。彼女が垣間見た夢は瞬時に覚めていた。その場に踏ん張るように足を止める。顔には戸惑いの色が浮かんでいた。
 彼女の言動を、他の人々は全く気に留めていない。呼ばれた当人すら僅かに目線のみを少女に向けたのみで、それもすぐに外されていた。来訪者達を見定めるようにゆっくりとその人々の顔に視線を当ててゆく。
 そんな中、デスクの前に立つソウタは姿勢を正していた。負傷して2ヶ月にもなろうとしている今、その白い杖は彼の身体の一部である。それを器用に操り、真っ直ぐと立つ。そして身体の負担とならないように、軽く頭を下げていた。
「先生。お久し振りです」
 黒髪の青年が一礼と共に発したその台詞に、デスクの人物は僅かに目線を動かした。無感動な瞳が、下げられた彼の頭部を見やる。
「…私は久島永一朗そのひとではないのだから、君が用いるその呼称は適当ではないと何度言えば判る」
 表情同様に感情が込められていない乾いた声が、その口から紡ぎ出された。動作したのはその唇のみで、他の箇所は一切動かそうとはしていない。
 その声にもソウタは頭を下げたままだった。半ば目を伏せた状態で俯いている。自らの足元を眺めていた。そして心情を吐露するように言葉を発する。
「私があなたをそう呼びたいだけです。お気になさらないで下さい」
「人間の自己満足と言う奴か」
「そう思って頂いて結構です」
 その青年の肯定に、人間ではないその存在は、興味を失ったように視線を外した。再び視線を巡らせ、室内に立っている他の人間の顔に行き当たる。
「…波留真理…蒼井ミナモ…――そして」
 彼は視線を向けたその顔の持ち主の名を、確認するかのように口の中で呟く。誰に聴かせるともなく、単なる認証作業を声に発しているかのようだった。
 しかし、その視線が既知のそのふたりから外れ、傍らに立っている老女に至った時、彼は初めて顔に表情を見せた。言い掛けた口を半開きのままに、僅かに目を動かした。怪訝そうな顔をして、老女を見上げている。
 その表情を目の当たりにした老女は顔を僅かに歪めていた。眉を寄せる。それは厳しい表情と言うには若干ながら悲痛さを感じさせるものだった。ミナモはそれを後ろから見て、口許に手を当てる。この姉の心情を推し量った気分になっていた。
 姉に対する弟の映し身である存在は、軽く首を傾げた。前髪が額に掛かり目許を遮るが、彼は特に気にした様子もなかった。そして彼はその態度のまま、声を発した。
「――…君は、誰だ?」
 
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