2061年7月16日。 その日、電理研統括部長である久島永一朗はテロの標的となり、何者かに全身義体の頭部から脳核のみを拉致されると言う憂き目に遭っていた。その犯人は早期に逮捕され脳核も事件発覚当日のうちに奪還されており、その事件は一応の決着を見ている。 しかしその損害は甚大なものとなっていた。 人間は脳核のみの状態になったとしても、その自らの身体の感触を持ち得ていなければ精神的なダメージを受ける。全ての感覚の出入力を断たれた人間が廃人化してしまうのは有史の頃から知られている話であり、この時代においてもそれは解消されていないためだ。 そのために脳核には、生脳を保護する外殻部分に生命維持装置と共に五感を擬似的に送受信する信号装置が備わっている。それらにより肉体的にも精神的にも「人間」を保つように成されていた。しかしそれらはあくまでも一時的な措置であり、これらの装置は起動してから1日も持たない。早急に義体やその他の装置に脳核を接続する必要があった。 そして、現在の人工島の住民の大半は、脳にナノマシンを投与して電脳化を行っている。それは普段の日常生活においては人工島全域で時間を問わずメタルに接続可能とする、快適さを与えてくれる。 だが、脳核のみの存在となった人間には、それが仇となる。ナノマシンの制御を失い、メタルへ意識が常時接続状態となってしまうのだ。そしてその状態が持続した場合、自意識がメタルに完全に流れ出してしまう。最終的には自らの脳に意識が復帰するためのリンクラインすらもメタルに流れ、消失するのである。 そして久島永一朗はその状態にあった。脳核の奪還には最大限の努力が成されたが、それでも時間を浪費し過ぎていた。奪還したその時点で既に、彼の記憶も自意識も、全てメタルへと消えていた。 更には拉致犯は脳核を初期化しようと初期化装置に掛けていた。初期化作業途中で奪還し阻止したとは言え、その後の記憶の復元作業は芳しくない結果に終わってしまった。 その時点では彼の記憶と意識はメタルに溶け、広大なメタルの海にジャンクデータとしてばら撒かれた事になっている。それを目当てに様々な立場のダイバーが宝探しとばかりに各々勝手にサルベージ作業に当たったが、目立った成果を挙げたと言う話は公式報告にも単なる噂としても全く伝わってきていない。 そのように、結果的にメタル内で奇妙なゴールドラッシュを引き起こしたこの事件だが、それも7月末の全メタル初期化と再起動により、終わりを見た。その24時間の期間、全世界規模で広大なメタル自体の通電を停止し、メタルを初期化したのである。それによりメタルに漂っていた全ての情報は喪われた。無論、久島永一朗の記憶も例外ではなかった。 そうなった以上、彼の記憶や意識の復帰の見込みは最早ないはずだった。人工島と言うハードウェアとメタルと言うソフトウェア、人類にとってふたつの重要な転換点を構築する中心人物となった彼の記憶はかけがえのない財産だった。しかしそれも全て失われた。人類の宝は未来永劫この次元から消失したはずだった。 が、現実には、想像だにしていなかった事態が発生している。 メタルが初期化したと言うのに、メタル内に各々が保持したプールサーバに意識の保持を依存しているはずのアンドロイドの中には、自然に再起動した者も少なからず存在したのである。彼らは初期化以前、起動を停止する直前のデータを保持したまま再起動していた。彼らが記憶の根拠とするメタルは初期化されたはずなのにである。 そしてその再起動アンドロイド組の中には、久島永一朗の記憶を引き継いだAIも含まれていた。 その存在は久島当人が自らの義体に隠蔽していたもので、彼が何らかの事情で不予に陥った際に起動するように仕組まれていたらしい。そしてそのAIは久島の記憶を引き継ぎ動作していた。誰もが――おそらくはAI当人も想定していなかった再起動後も、それは変わっていない。 「彼」は現在、久島当人が電理研内に確保していたプライベートルームに滞在している。それは電理研が指示した訳でもなく、彼がオリジナルのようにその部屋に戻り閉じ篭った行為を追認した形になっていた。 彼の存在は表沙汰にはされていないため、人間の前に姿を見せる訳にもいかない事情があった。対外的には、久島部長はメタルに意識が溶けた「ブレインダウン症例」の治療中の身の上となっている。奪還された脳核は彼の義体に戻され、その状態でプライベートルームにて加療しているのだと。回復の見込みはないとは言え、電理研のみならず人工島においても神の如き存在であった彼を放置はしておけないと、表向きにはそう言う事になっている。 その彼が何事もなかったかのように部屋の外に出ていては、折角新たに構築されようとしている秩序が乱れてしまう。その辺りをAI自身も弁えているのか、それとも外部に興味がないのか。電理研側が彼を軟禁状態にするまでもなく、彼は部屋から一歩も外に出ようとはしなかった。 彼はまるで墓守のようにオリジナルの脳核を頭部に収めたまま、その記憶を保持して沈黙している。電理研側がたまにその記憶の閲覧を彼に依頼すると、彼はそれに応じてきた。どんな情報が欲しいのか聞き取り、彼がその手で記憶を切り分けて与えている。AIの基本設定には、「人間の命令への絶対遵守」が含まれている。それはこの特殊なAIでも変わっていないらしかった。 電理研側は、彼が久島部長の記憶を受け継いだまま再起動し現在に至っている事を、8月初旬には既に把握していた。だからこそ記憶の閲覧を依頼するのである。 相手はAIであり人間に従うべき存在ではある。だと言うのにその存在を出来る限り尊重しようとするのは、少々迂遠な面もあった。そう判断する幹部も少なからず居た。 しかしそれも、久島部長が対外的にも法的にも、現在の状況においても生存状態にあるからだった。そしてAIはそのオリジナルの脳核を抱え込み、生命維持装置の役割も担っている。 AIのマスターとシステム管理者が久島当人である以上、外部からのシステム変更は機構上非常な困難を極める事が予想されている。AIやアンドロイドに対する命令権の頂点に立つのがそのふたつの役職である以上、一般的なAI達相手であっても第三者がそのプロテクトを打ち破るのは容易ではない。ましてや、今回の相手はメタルの開発責任者である久島永一朗である。勝ち目などある訳がなかった。 そしてそのふたつの役職に就いている者は、現在も尚「生きている」のである。不用意に介入する法的根拠など存在しなかった。 それでも電理研幹部の中には、彼の記憶を直接覗きたいものが存在している。人間の命令には絶対遵守のAI相手とは言え、それは久島が設計構築した存在である。何か他のAIには存在しないような別の設定が成されていないとは言い切れず、彼の作業を信用し切れないと言うのが彼らの論拠である。 彼には渡したくないデータがあってそれを隠蔽しようとしているのではないか?そうではないと誰が証明出来る?ならば人間が直に部長の記憶を管理し吸い出すべきだ――そう言う論理がそこにある。 しかしそれには、脳核のみの存在となり自意識が復元不可能となっている久島が未だに「生きている」事がネックとなる。彼の意向を無視して、勝手にそのAIや脳核をいじる事など許されないからだ。 ならば、法的手続きを粛々と進めて行けばいい。回復の見込みがないブレインダウン症例は、脳死に類似する状態である。この場合、世界的に一般的な脳死への対応を試みる事が出来るだろう。具体的には彼の親族に連絡し、脳核のみの存在となった彼をどうするかを尋ねるのだ――。 以上のような決議が電理研にて成され、評議会の承認も受けていた。それは秘密裏に進められている話ではあるが、人工島の利益となり得る案件であるために着実に進められていた。 そして8月下旬には、その連絡が久島の親族の元へともたらされている。彼の故郷である、京都の実家へと。 |