そんな若き統括部長代理に対し、声が掛けられていた。 「ソウタ君。ついつい着いて来てしまいましたが、僕は外した方がいいですかね?」 ソウタはその声に顔を上げる。何気なく話題を本筋に戻してくれようとしているその台詞を、彼は助け舟のように感じた。 見上げるソウタの視線の先には、波留が立っていた。胸に手を当て、ソウタを伺うように見ている。――自分は部長代理から呼ばれて来た訳ではないので、この場には居合わせない方がいいだろうか?彼はそう言外に尋ねてきていた。 それを悟り、ソウタは右手を顎に当てる。俯き加減になり、考え込むような仕草を取った。 「いえ…」 僅かに言葉を発した後、脳内で考えを巡らせる。――確かに波留には直接は関係しない話題が展開されるはずだった。だから特に同席の必要はない。 しかし、波留のような人物を人払いするような理由もなかった。少なくともソウタはそう思った。 彼は波留を信頼している。それは当初、電理研の幹部として就任して貰うよう要請した事からも窺い知る事が出来る。そんな人間を同席させておいて交渉を進めるならば、密室政治との批判もなくなるだろうか――彼はそう判断していた。 基本的に波留はソウタの味方であるはずだった。しかし、全ての場合においてそうとも限らないだろう。それは当人のソウタにも良く判っている。 しばしの沈黙の間にソウタはそれだけの思考を構築していた。そしてその結論に至り、顔を上げる。デスクの前に立っている波留を見上げた。 「…波留さんは居て下さっても大丈夫です」 僅かに微笑み、ソウタはそう告げていた。それに波留も柔らかく微笑する。了承の意として、軽く頷いてみせた。 それでは、問題はもうひとりの乱入者である。ソウタはそう思い、波留から視線を外す。その隣に立っている頭ひとつ小さい少女の顔を見た。 波留相手の時とは違い、若干の無遠慮そうな視線を向ける。それは妹相手である事情が大きい。しかしそれだけではない。彼にとって、妹がここに居る理由はなかったのだ。 百歩譲って、今日は機会があったので差し入れを自分の手で持ち込んだと言うのは、許してもいい。 ソウタは彼女からは7月末から不定期に差し入れを貰い続けている。しかしそれは、あくまでもホロンを介してかソウタ自身がリラクゼーションルームかエントランスかに出向いての事だった。ミナモ自身がソウタの勤務領域にまで侵入してきた事は今までなかった。 7月以前にはミナモはこの部長オフィスへの入室許可を出されており、現在もその許可を取り消しては居ない。システム上は自在に入室出来る状況になってはいる。 しかし用件もないのに出入りするような妹ではないはずだと、兄は信じていた。実際、今までそんな行為をしなかったのは、妹の自重があったのだろうと思っている。 ミナモを見つめるソウタの視線には、そう言った思考が表れているのだろう。無遠慮な視線を受け止めているミナモも、若干怯んだような顔をしている。 自分には分が悪い状況だと、彼女にも良く判っていた。そもそも彼女としても、この差し入れの弁当さえ渡してしまえば特に用件は残されていない。波留や老女とはもう少し会話していたかったが、もし彼らにはこのオフィスでの用事があるのならば、それに割り込んでまで我を通そうとは思わなかった。それが彼女の美点である。 ミナモは胸に手を当てた。若干前屈みになり、何かを言おうとした。ソウタに言われるより先に、その結論を自分から口にするつもりだった。 その兄と妹の無言のやり取りを遮る声があった。 「――じゃあ、私はその子にも同席して欲しいわ」 冷静な声がオフィスに響く。ミナモの背後に一歩引いたように立っている老女が、高らかにそう宣言したのだ。 「…え?」 「はい?」 これには兄も妹もきょとんとする。同時にそんな声を発し合い、顔を見合わせていた。――どう言う考えから、そんな事を言い出すのか。ふたりはそのような疑問を抱く。 そして示し合わせたようにふたりは、老女に視線を向けた。本当に同じような動きを見せているために、やはりこのふたりは兄と妹なのだと周囲の人々には実感させる。 老女はふたり分の視線を真正面から受け止める。顎を引き、毅然とした表情を見せた。そこに微笑みはない。 そして彼女はソウタに視線を向けた。頬にはミナモからの視線を受け止めているが、それに対しては気にしていない様子である。 老女の真っ直ぐな視線は鋭いもので、ソウタはまるで彼が「先生」と仰ぐ人物のそれであるように錯覚した。椅子に腰掛けたまま、軽く身じろぐ。 そして彼女は形の良い唇を動かす。皺が寄った口許が言葉を発していた。 「あなた…実の妹の前で言えないような事を、私に依頼しようとしているの?」 「――!」 この台詞が、ソウタの心の琴線に引っ掛かったらしい。彼は喉を若干反らせるまでに身体を引いていた。口を結び、その奥で息を飲んでいる。そんな彼の変化をミナモや波留は怪訝そうに見ていた。 やがてソウタは顔を傾ける。俯き、デスクを見やった。右手に拳を作り、軽く握り締める。 「…判りました」 眉を寄せ、ソウタは押し殺すようにそう言った。短いが癖の強い前髪が彼の目許に掛かる。 「ホロン、皆さんをそこの応接スペースへ。それと、紅茶を4つ」 「了解致しました。ソウタ様」 俯いたまま、ソウタは傍らに立っているアンドロイドに指示を出す。それに彼女はにこやかに頷いた。 ホロンはソウタに対して一礼を残した後、進み出て身体を傾けつつ老女の前に立つ。部屋の奥を指し示し、その先にある6人掛けのソファーが用意されている応接スペースを案内した。本来の客である老女はそれを当然のように受け容れ、勧めに従い歩いてゆく。 その後に続く波留は、少し心配そうに振り向いていた。彼の視線の先にはソウタがデスクに着いている。彼は足を止めて部長代理を見つめるが、青年は俯いたままで顔を上げようとはしない。そのために表情は判らなかった。 波留はソウタの心情を推察する情報を集める事を断念し、前を向いた。ソファーに向かって歩き始める。 最後に残っていたのはミナモである。彼女は弁当を手渡した事で、デスクの真正面に立っていた。今までの人々の中で一番ソウタに近い距離に居る事になる。 妹は俯いている兄に視線を送っていた。すると彼は、デスクに両手をつく。ゆっくりとその身体を持ち上げようとした。 その時、彼の身体が傾ぐ。ふらついて横に倒れそうになった。 「――ソウタ!」 その様子を見ると、慌ててミナモはデスクを右側に回り込む。瞬時にソウタの隣に走り寄っていた。機敏な動作は彼女の持ち味であり、また彼女は介助士を目指して訓練を重ねている。だから不具合めいた動きには敏感だった。 ソウタの身体は右に傾いている。だからミナモも彼の右肩を支えていた。 「大丈夫?」 「…ああ。いつもの事だ」 心配そうに訊く妹に対し、兄は静かにそう答えていた。 デスクの下部には白い杖が立てかけられている。それは座っている状態で彼の手が届く位置に置かれてあり、前方に立つ人々からは見えない位置であった。 |