現在の電理研統括部長代理たる蒼井ソウタは、今日も部長オフィスにて自らの仕事を行っていた。
 彼がこの任に就いてから2ヶ月が経過しようとしている。その日々を過ごした結果、その職の多忙さに慣れた部分とそうとは言い切れない部分とを彼は抱えていた。
 ソウタはこの任に就く以前には統括部長付秘書と言う肩書きを持ち、前々から部長職の業務の補佐を行ってきていた。だから部長代理として実質的に部長職を担っている現在の仕事の大半は、以前から応対していた業務である。やり慣れた部分も多かった。
 更には彼自身が有能な人材である。人工島の大学においても優秀な成績を修め、そもそもの久島部長への推薦状も書記長からのものだった。それらが彼の頭脳を証明している。
 困難な状況下にありながらもソウタは様々な案件をこなしてゆくうちに、その能力を徐々に発揮し始めている。それでも、前任者があまりにも偉大なだけあり、その穴はなかなか埋める事は出来ない。しかしその前任者の存在を考慮しなければ、彼の能力は最高幹部として及第点を与えるに相応しいものだった。それは彼の後ろ盾となっている電理研幹部達も認める事実である。
 しかし当人は、その前任者の弟子である。久島部長を未だに手が届かない存在として掲げ、自らを未熟者だとして悩むものだった。
 そんな彼は今、部長オフィスのデスクに着いたまま、重要な案件を抱えた来客を待っていた。両肘をデスクに立て、両手を顔の前で組んでその上に顎を乗せている。来客を待っている以上、他の仕事を片付けようとする気分にはなれなかった。
 エントランス担当の受付アンドロイドからの電通で、その客は既に電理研を訪れていると彼は知っている。だから彼は、自らの秘書業務を行っているアンドロイドを迎えに送っていた。そして彼女から、その来客を現在送迎している所であるとのメールを受け取っている。
 やがて、オフィスの入口の自動ドアが静かに開く音がする。次いで、そこからソウタに馴染みの女性の姿が垣間見えた。
「――部長代理。お客様をお連れ致しました」
 ホロンは入口をくぐり抜けた後、その脇に身体を引く。そして軽く一礼を行うと、その彼女の横を和装の老女が歩いてきた。
 しっかりとした足取りでステンレスめいた床を草履が捉え、音を立てる。白髪を結い上げた頭が僅かに室内を見定めるように巡り、そして部屋の奥に人影があるのを見出したようだった。
 デスクに着いたままだったソウタは、その老女からの視線を受け止める。彼は老女に軽く会釈するように頷き、両手を解く。そのまま掌をデスクについた。立ち上がり、本格的に挨拶を行おうとする。
 そこに、また別の存在が姿を現していた。
「――ソウタ君。お久し振りです」
 老女の背後から現れた人影は、長い黒髪の男だった。青いシャツとジーンズに身を包み、すらりとした肉体を室内に導いてきている。
 その姿を認めたソウタは唖然とした。掌に力を込めた姿勢のまま、結局腰を上げる事無くその場に座ったまま硬直してしまう。
 入室してきた男とは顔見知りであり、この部長オフィスでたまにやり取りを行う仲でもある。だから入室してきた事自体は問題とはしていない。ソウタにとってはこの部長オフィスへの入室許可を出している相手であり、常々セキュリティをきちんと通過して来ているはずなのだから。
 その波留の存在は今日の来客の予定にはなかった点が、ソウタにとっては想定外である。しかし今日が波留の出勤日と訊いていたために、エントランスかリラクゼーションルームに波留が居た可能性は高い。ついでに着いてきたのだろうとソウタは考えた。そしてそれを認めるつもりだった。
 そんな風に部長代理が想定外の来客の処遇について考えを纏め終わった時だった。
「――ソウタ、元気だった?」
 場違いな少女の声に、ソウタは波留を目の当たりにした時以上に硬直していた。ぽかんと口を開け、両目も丸くしている。
 彼の視線の先に居る長身の波留の背中に隠れるようにして、褐色の髪を持つ少女がピンクのリボンを揺らしながらオフィスに入ってきていた。
 彼女はソウタの姿を認めると、右手を振って声を掛けてきていた。その少女の存在にソウタは戸惑いを隠せない。
「…ミナモ。お前、何でここに」
 困惑した表情でソウタはミナモに短い言葉を並べていた。あまりに動揺しているためか、まともな文章を形成出来ていない。
 そんな兄の様子を妹は一切気にしていない。波留達を追い越し、てくてくとデスクの前へと足を進めて行った。その最中にも手提げ袋のひとつに片手を突っ込み、中身を探る。そしてデスクの正面に立つ頃にはその手を袋から引き抜いていた。
「あ、これ。約束の差し入れ」
 ミナモはそう言い、デスクを挟んで向かい合っているソウタに包みを差し出していた。それは中程の大きさの弁当箱であり、きちんと洗濯されたギンガムチェックのマットが綺麗に包み込んでいる。
「お、いつも悪いな…」
 ソウタは差し出されたそれを、普通に受け取っていた。それはミナモからたまに差し入れられる弁当の形式であり、目にした瞬間に反射的に対応してしまっていた。
 更には微かに弁当から漏れて漂ってくる中身の匂いが鼻を突く。弁当を受け取った右手には、そのぬくもりが感じられていた。それらが彼の脳に働き掛けてくる。
 弁当に出来る料理の幅はそれ程広くはない。下手に創意工夫を凝らしても調理法や保存状況に適さない可能性が高いからだ。そのためか、この妹からの差し入れの弁当は、毎回中身は殆ど代わり映えしていない。今回もおそらく同じようなものだろう。
 しかし、妹が弁当を作りそれを差し入れて貰えると言うのは、味などを超越した嬉しさを感じるものだ。自分ですらそうなのだから、父はもっと嬉しいのではないだろうか――ソウタはそんな事を思っていた。
 が、今はそんな暖かな気持ちに浸っている場合ではない事をすぐに思い出す。
「――じゃなくて!」
「何よ」
 突然声を荒げられた妹の方は、唇を尖らせた。抗議の意を表する。
 そしてその背後から、また新たな声が届いた。
「――あなたのお兄さんって、統括部長代理だったの?」
 老人特有のしわがれた声ではあるが、その声は良く通っている。ミナモは聴き慣れつつあるその声に振り返った。大きく頷く。
「はい」
「道理で苗字が一緒のはずね。やっぱりあなたとは不思議な御縁があるのかしら…」
 ミナモの背後に立つ和装の老女は視線を上に向けつつ、そんな事を言っていた。その声の調子からは好意的なものも感じられる。
 ――それにしたって、何故この老女と自分の妹が一緒に居るのか。何故このように知り合いめいた会話を交わしているのか。傍から見ているソウタには、もう何が何だか判らない。
 ミナモから手渡された弁当をモノリスのデスクの上に置き、ソウタはがっくりと肩を落としていた。まだ勤務時間真っ只中のはずだが、どうしようもなく下らない話題から、疲れがどっと出てくる。
 
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